昨日、留守電に伝言が残っていた。
ボソボソとした声で聞き取れない。
何回か聞き直し、どうやら車検のことと判明した。
すっかり失念していた。
そういば、そんな時期である。
失念していた理由は、手元にないから。
車を貸して、ほぼ1年になる。
首都圏にいると、バス、電車、タクシーと交通手段はいくらでもある。
小さな子供がいるわけでもないし、日々の買い物の量も少ない。
まして、酒を飲む機会の多い身としては、車はむしろ邪魔でさえある。
もはや、どうしても車を手元に置いておく理由が見当たらない。
いっそ売り飛ばそうか、それとも誰か借りてもらえないかと思っていた。
大学時代の友人と久々に会ったおり、彼から母親の介護のため車が必要と話がでた。
渡りに船とばかり、借りてもらうことを提案した。
そんな経緯で車のない生活が始まった。
当初、さぞかし不便だろうと思った。
たしかに時々、車があったらと思うこともあった。
しかし、それもなんとか工夫すれば解決できる。
むしろ、これまで車で出かけたが故、残念に思ったことが多々あった。
例えば、車で出かけたはいいが、渋滞に巻き込まれ、目的地についたころには遊ぶ気
力さえなくなったこと、や。
例えば、久々に友人宅に遊びに行き、奥様の手料理は楽しめたが、車のため友と酒を
酌み交わすことが出来なかった、等など。
かつて、免許を取得し、車を所有することは大人になるための入口であり、通過儀礼
のような役割さえ持っていた。
タバコもそうだった。
大人は吸うのが当たり前、吸ってないやつは女々しい(女性の方々失礼)とさえ思わ
れていた。
いまや、そのトレンド(流行り廃り)は大きく変貌した。
僕たちは、モノを手放す開放感は不便さと引き換えにしても、なお心地よいことを知
ってしまった。
そして、これまで意味付けされたモノの価値はこれからも激しく瓦解していくだろう。
それでも、あえてモノを所有するとすれば、それはなぜなのか?
もはや、必要だから持つという意味が優先されるのではない。
単にモノを売る時代は終焉し、自分事として共有・共感したモノしか選ばれない時代
に突入したということではないか。
まさしく、ファンの時代の幕開けである。