昨年亡くなった父は、大正10年(1921年)生まれ。
昭和10年(1935年)3月、14歳で銀座にあった時計商に修理工として丁稚奉公に入
った。
初めて上京した時の、帝都東京の印象を聞いたことがある。
来る日も来る日も、どんよりと垂れ込める雪雲に覆われた津軽から、一昼夜かけ上野
に着くと、眩しいほどの太陽と、抜けるような青空。
そして行き交う人々のざわめき、クルマのクラクション、路面電車のチンチンという
警笛、服部時計店、三越の街並み、銀座の華やいだ空気に圧倒されたと言う。
週末、映画『小さいおうち』(山田洋次監督作品)を観た。
監督の82本目となる今作品、これまで家族の絆や温かみを描いてきた監督が、更に深
く人間の心の奥底に分け入り、その深淵を描き出そうとした野心作である。
時代背景は、1935年(昭和10年)から終戦直後、そして2000年(平成12年)から
2009年(平成21年)頃。
物語は、2つの時代が交差しながら紡がれていく。
この作品に描かれた昭和は、大正時代から始まったモダニズム、和洋折衷の文化の華が
大輪となって輝いた時代である。
しかし、その一方で、やがて始まる戦争への足音に微かに怯えながらも、楽観的に人生
を謳歌しようとする人々の姿が見て取れる。
撮影前、山田監督がこう語っている。
「この作品は、東京郊外のモダンな家で起きた、ある恋愛事件の秘密を巡る物語が核にあ
るけれども、そのストーリーの向こうに、あまり見つめられてこなかった当時の小市民家
庭の暮し、戦前から敗戦の時代を描きつつ、更にはその先に、果たして今の日本がどこへ
向かっていくのか、というようなことも見えてくる作品にしたい」。
生前、父の90歳の誕生を祝う小さな会を開いたことがある。
ボクたちを前に、父が話したことをいまでもはっきりと覚えている。
「このささやかな幸せに感謝する。そして、日本はどんなことがあっても二度と戦争をし
てはいけない」と。
松たか子、倍賞千恵子、吉岡秀隆、妻夫木聡といった錚々たる役者陣。
音楽は久石譲が担当。
撮影・録音・照明・美術と、製作陣も山田組ゆえの確かな映画作法。
細部にいたるまで野心溢れる感性と、静かだが圧倒的なメッセージを感じた。
紛れもなく傑作である。