馬齢を重ね、見えてきたことがある。
何事もほどほどに、無理をしない。
これまで大概のことはやってきたから、どの程度の加減でどうなるかが予測
できる。
日々の暮らしにそれほど大きな出来事が起こるはずもないし、大過なく過ぎ
て行くことが喜びであることも了解している。
これが処世の術である。
確かに一理ある。
ただ、この方法を採用していると、面白さに欠ける。
破綻がない。
ワクワクもドキドキもない。
だから時々、自分にできる限度をほんの少しだけ超えたことをやってみたく
なる。
なにも、これまでやったことのないものにチャレンジするということでは
ない。
むしろ、これまで普通にやっていることのなかで、いつもより少し高い目標
を掲げてみる。
例えば、朝1時間早く起きて、本を読む。
例えば、目的地の1つ前の駅で下車し1駅分歩く。
例えば、3合の晩酌を2合にする。
すると、いつもの方法や気持ちでやってみても、なかなか上手くいかない。
そして、継続することも難しいことに気がつく。
棒高跳びのバーをほんの数ミリ上げただけで、それを超えることが至難であ
るのに似ている。
困ることが目の前に立ちはだかり、はじめてヒトは考える。
調べる、試す、再考する。
失敗してもいい。
なんとかしようと工夫する。
この工夫にこそ、自分らしさが現れる。
結果はいずれ出てくる。
ふと、かつて困難な旅をしながら新しい自分を発見した日のことを思い出した。
この夏、凡庸な日々の中にいる自分を困らせ、チャレンジする小さな旅に出か
けたくなった。