週末、海を見てきた。
波飛沫の立つ波頭と波のうねりを砂浜に座り、眺めてきた。
私が日ごろ目にする「海」と随分様子が違う。
ここには生命の母体とか、揺り籠と呼ばれている普遍的で変わらぬ価値として捉えていたあの懐かしい海があった。
たしかに、東京でも横浜でも「海」は見える。
むしろ都市の中の「海」など珍しくもない。
例えばそれは展示場に向かうモノレールから見えるお台場のそれだったり、レンガ倉庫の書割背景の一部のようなそれだったり、と。
まるで巨大なジグソーパズルのかけらのように、全体がどうなっているのか判然としないが、たしかにパズルの一部を構成している部分であることだけは分かる。
そんな様子の「海」である。
でもそれは、スケールの違いとか、どちらがより自然でどちらが人工的かというのでもない位相を感じた。
文化人類学者エドワード・ホールによれば、ものの見え方の差異は存在するものの解釈の差異ではなく、構造の 差異であると『かくれた次元』のなかで言及している。
引用する。
「異なる文化に属する人々は、ちがう言語をしゃべるだけではなく、もっと重要なことには、ちがう感覚世界に住んでいる。感覚情報を選択的にふるいわける結果、あることは受けいれられ、それ以外のことは漉しすてられる。そのため、ある文化の型の感覚スクリーンを通して受けとられた体験は、他の文化の型を通して受けとられた体験とはまったくちがうのである。事実、このように人間の手で変更された環境をみれば、感覚の使いかたがいかに異なっているか知ることができる。したがって、体験というものは、依存する照合点と考えることができない。それは人間によって型どられた舞台装置の中で生じるものだからである。」(日高敏隆・佐藤信行訳/みすず 書房)
なるほど、東京や横浜で見る「海」はすでに私の網膜に刷り込まれ、検閲され、容認された世界として私のなかで安定した関係を形作っている。
簡単にいえばジグソーパズルのような「海」に私が慣れ、うねりのある海を違うものと感じたのかもしれない。
しばらく、うねりと飛沫をあげる海を眺めながら妄想する。
第三次世界大戦で地球崩壊→宇宙船での脱出→第●惑星に不時着→ハッチを開ける→海だ!
記憶の地層を掘り起こすと、そこにはあらかじめ失われた懐かしい風景が広がっていた。