【伊勢藤の灯りと師匠の背中】
会社を創業して間も無いころのことだ。
いまでもなぜそうしたのか、明快には言えないが、創業時の会社としてのカタチもまだ出
来てない、社員もいないのに顧問と会計士は置いた。
なぜだか、そのほうがいいと思った。
当時、クライアントは2社、仕事もその2つしかなかった。
だから、突然ポカリと時間が空くことがある。
そんなある日の午後、顧問の宇田一夫が教えてくれた。
ともかく、その日の午後はまったく予定が無かった。
そして、宇田が言った。
「川村くん、燗酒は梅雨時がいちばん旨いんだ、その理由は、発酵が適度に即される六月
が、酒の塩梅がよくなるからだ」と。
では、一杯やりましょうと、宇田を急かした。
宇田と向かった先は、神楽坂。
十数年前のことである。
神楽坂はいまほどの人混みもなく、割合静かな街だった。
路地裏にある居酒屋。
旧い木造平屋の入口脇に「伊勢藤」の灯りがともる。
少しむっとする生温かなな梅雨の夕暮れ時。
宇田に誘われるまま、縄のれんを潜り、障子戸をあけて店内に入る。
思いの外、暗く、ひんやりとしている。
目に飛び込んできたのは、煌々と輝く真っ赤な炭火。
そして、その傍らには、一心不乱に火加減を気にしながら燗酒の頃合いを見ている男。
この男がこの屋の主。
案内された席につく、そして宇田がなにやら小声で注文した。
暫くして、小皿に盛られた数種の肴と、燗酒の入った徳利とお猪口が運ばれてきた。
酒は、灘の男酒「白鷹」。
伊勢藤には、ビールが置いてない。
酒もこの銘柄のみである。
かつて灘から江戸に運ばれた、下り酒の系譜をもつ酒である。
そして、盃を交わした。
燗酒独特のふくよかな味わいなのに、きりりとしている。
あの時の酒の旨さは、いまも忘れられない。
それから毎年、梅雨時になると決まってこの店に通っている。
宇田が亡くなって、4回目の梅雨。
そろそろ、師匠と一献交わしたくなった。
今年もまた、縄のれんを潜り、会いにいくことにする。