第69号『101』

不謹慎な話しであるが、葬式会場で時々薄っすらと笑みを浮かべたり、時には笑いを堪えている人さえ見かけることがある。
それは稀ではなく、むしろ間々ある。
しばらく合点がいかず、随分と長いこと奇異に感じていたことの一つであった。

ここ数年、実弟や従兄弟、友人など自分と関係の深い人たちが続けて他界した。

葬儀に参列し、深い悲しみの中にいるにも拘わらず泣けない。
自分を見つめている随分と冷めたもう一人の自分がいる。
そうして、なんだかこうした芝居じみた光景とその中にいる自分が妙におかしく感じた。

なるほど、人は行き場のない悲しみの果てに、ついには呆れるほど明るく、滑稽でさえあることを知った。
こうして、悲しみの臨界点を超え、笑いに至るのだなと合点がいった。

臨界点を超えた時、モノやコトがまったく別の形に変容することがある。

例えば、水が氷に。
例えば、悲しみが笑いに。
例えば、意思が行動に。

個体がある一定のボリュームに達すると、その行動様式が他の個体に伝播するという話しを聞いた。
数年前になるが、生命科学者ライアル・ワトソンの『生命潮流』『風の博物誌』などの訳者である木幡和枝さんからだと記憶している。

それは、「イモ」と呼ばれる1匹の猿から始まる。
宮崎県の沖合いには幾つかの小さな島が点在している。
幸島という周囲3.5キロほどの島に生息している野生の猿に餌付けのため、芋を撒いていた。
時間も場所も一定に、そして一斉に猿が集まり餌に群がる。
ところがある時、一匹の猿がおもむろにその餌の芋を波打ち際まで持って行き、海水で芋に付いた泥を洗いその後、口に運んだ。
塩味を含んだ芋は格別旨い。
この、偉大な発見をしたのが、「イモ」と呼ばれたメス猿だ。
しばらくすると、われもわれもと猿たちは餌の芋を海水でを洗い食した。
そうして、その個体数がおよそ100を超えたあたりで予想も出来ないことが起きる。
海を隔て、伝達手段もまったくない隣の島に生息している猿の群れの中の1匹が、突然海水で餌の芋を洗い口にしたという。

当時、にわかに信じがたいコトとしてその話しを聞いた。
しかし、いまならその話しは自分の腑に落ちる。

いくつかのファンサイトを運営し、これと似た現象を体験した。
数はそれぞれその業態によって違うが、ファンが集まり、そのボリュームがある一定数を超えると、あきらかに101匹目の猿のような変化が生ずる。
それは、メディアの出現であったり、流通の発生であったりと様々だ。

ともあれ、意思の集合はあきらかにそれまでの行動と、その様式を変化させるという事実がある。

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