第709号『ドメスティックとグローバル』

img_4797s【弘前城とさくら】

さくらとりんご、ねぷた祭りで有名な、青森県弘前市で育った。
城下町らしく、商売人や職人、そして勤め人を親に持つ、雑多な暮らしぶりの子
供たちが形作る小・中・高校生時代だった。
いま振り返れば、豊かな共同体だった。

中学・高校と、ユニークな先生方も多かった。
太宰治の「走れメロス」を全文津軽弁(リズム感がピッタリと合って心地よく読
めた)で朗読させた国語教師。
津軽藩、斗南藩、南部藩の歴史をまるで見てきたかのように語る社会科の先生。
イントネーションがほぼ津軽訛があたりまえの英語の先生。
生物の先生は、津軽富士ともいわれる岩木山の草木について語りだすと止まらな
かった。

振り返ってみれば、あのころの教室はずいぶんと、おおらかなものだった。
おそらく、いまほどにはきっちりとしたマニュアルもなく、それぞれの先生方が
自らが信じる想いを真っ直ぐに伝えていたのだろう。

大学に進学後、同級生にサラリーマン家庭が多いことに気付き、世の中で自営業
者(父は時計修理の職人だった)は少数派だということを知った。

思い返せば、中学・高校時代の先生方の個性あふれる授業が楽しく、無意識のう
ちに多様な考え方を尊重するような文化を体得したのではないか。
さらに、津軽と津軽弁という地域性に拘泥した中での教えは、超ドメスティック
なものではあったが、それが(津軽と東京、日本と世界、個と全体など)かえっ
て自分たちの立ち位置を明快なものにすることができたのではないかと確信して
いる。

昨今、国際競争を勝ち抜ける人材の標準準拠的育成を目標に掲げ、子どもたちを
型にはめようとする政治家や教育者が散見されるが、違和感を感じる。

似たような大人ばかりが育つ社会とは?
想像するに、のっぺりとしていて面白みに欠ける。

ボクが育った超ドメスティックな津軽の方が、自分たちの地域を大切にし、そし
て様々な背景をもつ他者に、自分の言葉で想いを届ける訓練ができていた。
そうした意味では、はるかにグローバルということの意味を習得していたような
気がする。

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