第729号『花筏』

【弘前城の桜】

4月は少し悲しい季節だ。
10年前の4月8日に母を亡くし、5年前の4月11日に父も逝った。
父も母も長い時間、床に付くこともなく、(あっけないほど)きれいに旅立
った。

東京では桜が咲き誇っていたが、津軽ではまだまだ、蕾さえ芽吹いていなか
ったが、それでも弘前城公園の木樹全体が、ほんのりと桜色を帯びていたこ
とを思い出す。

ボクは学生時代、弘前城の裏手、五十石町にある伯母の家に(自宅が弘前に
あるにもかかわらず)、下宿していた。
かつて、津軽藩の(五十石取りの)下級武士が住んでいたエリアである。

余談だが、山田洋次監督作品の映画「たそがれ清兵衛」の主人公も五十石取
りだったことを思い出した。

古色蒼然としてはいたが、その古民家の佇まいに凛としたものを感じた。
そんな伯母の家に住みたかった。
そして、ここで鈴木清順監督作品の映画「けんかえれじい」のような青春を過
ごしてみたいと思った。

これも余談だが、故人となった鈴木清順監督は旧制弘前高等学校のOBである。
主演の高橋英樹が木刀で桜の枝を叩き、花びらが舞うシーンは、きっとなにか
しら弘前城公園につながる思い出があったのではないかと想像している。

伯母の家から学校までの朝の通学路では、公園の中を横切るのが近道だ。
ただし、観桜会期間は人混みで歩くこともままならない。
祭りも終わり、喧騒もすっかり遠のき、いつもの静けさを取り戻した公園の通
学路で、観ることを楽しみしている場所があった。

城の裏手にある西濠(お堀)。
お堀沿いの桜並木の(まるで歌舞伎役者が見えを切るかのような)剛毅な枝ぶ
りから散った花びらが、桜色にお堀の水面を覆い尽くす花筏。
この美しさを、なんと言えば伝わるのか・・・。

父と母の死を通して思ったことがある。

死生観というものは、もっても無駄だ。
それは、観念に過ぎないから。
いまの時代、誰であれ(例えば家族全員に看取られるような理想?の死とい
った)従来の習慣や体験だけに従って死ぬことは出来ない。
人は死ぬ瞬間まで生きなければならないし、その瞬間まで何が起こるかわか
らない。
すべては予測不可能。
それでも、もしボクなりの回答のようなものがあるとすれば、「人事を尽く
して天命を待つ」ということか。

西濠に 散って花咲く 花筏