第865号『本のタイトル』

【大きなくすの木】

今朝は初夏を思わせるような陽気に誘われ、お茶の入ったカップを持ちベランダに出た。
ベランダの先に大きなくすの木があり、風に枝葉がそよいでいる。
ぼんやりと眺めていると、ふいに弟のことが脳裏に浮かんだ。

2001年7月12日、早朝。
弟、俊二が三年間の闘病生活の末、永眠した。
47歳だった。

ある日、あまりの頭痛に耐えかね病院へ。
CTスキャンで検査すると、脳に腫瘍が見つかり即入院。
土曜日に入院し、水曜日には手術。
術後、右半身に麻痺が出た。
必死のリハビリを続け、なんとか退院した。
それからの2年と10ヶ月、しっかりと生き抜いてくれた。
長男である僕の代わりに家業の時計・眼鏡店を継ぎ、地元の商工会や、祭りも先頭に立っていた。
178センチ、110キロの躯体。
学生時代、柔道で少しは知られた存在だった。
誰からも信頼されていた。
僕が帰省したときは、もっと活気ある町にするためにはどうしたらよいかと、夜遅くまで話をした。
映画が好きで、バイクにまたがり、笑顔がさまになる男だった。
僕の長男が生まれた時、彼は甥っ子の誕生を、本当に喜んでくれた。
馬が合うのか、盆暮れの帰省の度に息子とよく遊んでくれた。

これは、倅から聞いた話しだ。
“叔父さんが亡くなる少し前、呼び出され、ふたりで話しをしたことがあったんだ。「俺はお前のことが好きだ。でもお前は、俺のことを忘れてしまうんだろうな。この世界は俺がいなくなっても、なんの変わりもなく明日を迎えるんだ」。この言葉に、その時は何も答えられなかった” と。
それから10年が経ち、倅は『世界から猫が消えたなら』という小説を書いた。
脳腫瘍で余命わずかとの宣告をされた男が、一日の命と引き換えに、世界からひとつずつ物を消していく・・・。
書きながら、倅は叔父さんへの答えを見出そうとしていたことに気がついたという。

僕自身、弟の死を目の当たりにして、これまで避けていたことや、見ぬふりをしていた諸々が白日の下に曝け出された。
このことは、2006年に上梓した『企業ファンサイト入門』日刊工業新聞社刊の第4章「弟の教え」のチャプターでも書いた。

脳腫瘍。
その知らせを受け、横浜から病院に駆けつけたとき、担当医から見せられた彼の脳のCTスキャンの像が、いまもくっきりと目に焼き付いて離れない。
脳幹の周囲に散らばる白い塊の点在、まるで宇宙に浮かぶ銀河系の星雲にも見えました。
それが腫瘍のグリオーマです。
一緒に聞いていた義妹は、その場でへたり込んでしまいました。
病院に義妹が残り、私は弟の子供たちと両親にこの事実を伝えることになりました。
病院を出ると日も陰りうっすらと肌寒く、九月の津軽は、早くも冬の気配すら感じさせました。
車に乗り込み、エンジンをかけると突然、どうしようもなく嗚咽と涙を抑えることができませんでした。

手を振って手術室に入っていった男が、10時間後には、まったく別人のような姿になって戻って来ました。
手術後、178センチ、110キロの巨漢が、見る影もなくやつれてしまいました。
そして、半身麻痺と視野狭窄と言語野に障害が起こりました。
もう手術はしないと、家族で決めました。
退院してからの三年間、自宅で養生していました。
家族に囲まれた時間を過ごすことができたことは、彼にとっても家族にとっても最高に素敵な終末だったと思っています。
私はこの間、二~三ヶ月に一度、土曜日の午後、半身麻痺になった弟を連れ出し、一緒に映画を観るために、夜行バスで定期便のように東京と故郷の津軽の間を往復しました。
仕事が終わった金曜日、夜22時、品川京急バスターミナル発、翌朝7時15分弘前駅前着。
実家に戻り、土曜日の午後、一緒に映画を観る。
日曜日夜10時、弘前駅前発、翌朝月曜日7時15分品川バスターミナル着。
そして、その足で、会社に出勤しました。
夜行バスで9時間の移動。
キツくなかったといえば嘘になるが、それでも通うことを続けることができたのは、なによりも弟が一緒に映画を観ることを楽しみに待っていてくれたからです。
弟も私も映画を観ているときだけは麻痺した体のことも病気のことも忘れ、昔のように何ひとつ変わらず、ただ一緒に並んでスクリーンを眺めていられるように思えたからです。
本当にいい奴でした。
その弟の死を目の当たりにして、私の中で何かが音を立てて崩れ落ち、これまで先送りにしていたことと向き合わなければならないことが、はっきりとわかったのです。
それは、人は死ぬという事実です。
知っていることと、わかることとは違うということがわかったのです。
頭でわかっていることと、身体でわかることは違うのです。
それまで、カッコつけていました。
「別に俺が主役にならなくてもいいや、それなりのポジションでそれなりのお金を稼げていればいい。知ったかぶりを決め込み、中心的な役割を果たす人の片腕として重宝がられている自分でいい。その気になればもっと力をだせるのに、それをしないでいる自分でいい。」と。
でも、それは主役でも脇役でもなく、自己満足に浸ったているだけの傍観者だったのです。
自分の人生を他人に委ねていたのです。
弟の死を目の当たりにして、カチッと頭の中で音がして心が決まりました。
「もうこうなったら自分でやるしかない」そして、キリンシーグラム社のウイスキー、ボストンクラブのファンサイトを2001年に開始し、その成功をベースに2002年4月にファンサイト有限会社を起業しました。
弟が亡くなった翌年のことでした。

創業以来、言い続けてきたことです。
企業の商品やサービスにも必ずファンがいる。
そのファンとの関係性を結ぶためのサイトを構築する必要がある、と。
「企業ファンサイト」とは、お客様が何を求め、どんな商品やサービスを開発すればよいのか、どこをどう改善すればよいのか、その具体的な考え方や、方法を見つけ出すことのできるマーケティング的発想をもったサイトのことです。
企業とお客様が一対一で向き合い、関係を築き上げ、結果として「企業がお客様と成長する」サイトです。
企業が「ファンサイト」を持つことは、会社案内や商品サービスの情報といった従来の企業ウェブサイトの運営では出会うことのない、価値と意見を持つ、新たなお客様を発見する「装置」になります。『企業ファンサイト入門』序章より

会社を創業して19年、『企業ファンサイト入門』の上梓から14年。
今春、二人の友人の出版をきっかけに、僕も次へのステップに向け、本を書きたいと思い始めた。
『本を書く』という仮題で、少しずつ書き始めたものの、これはというタイトルが見つからずにいた。
そして、今回タイトルを決めた。

『企業ファンサイト2.0』

起業し、自分が主役として歩き始めた途端、次々に問題が起き、その度にうんうんいいながら問題にぶつかり、それを一つひとつ乗り越えてきた。
その最初の関門通過をまとめたものが『企業ファンサイト入門』だとするなら、弟の死から20年の月日が経ち、今の通過地点はまさしく『企業ファンサイト2.0』と言えるのではないか。
弟からの教えに対しての、僕なりの答えを、いまなら少し話せるような気がする。