年末、南房総千倉町にある「海岸美術館」を訪ねた。
この美術館はカメラマン、浅井愼平氏の個人美術館である。
氏の代表的な写真が飾られた空間の一角に、美術館にしては珍しいモノがあった。
薪を焚く暖炉である。
夕暮れ、閉館までのひと時、暖炉の火をみて過ごした。
フランスの詩人であり哲学者でもあるガストン・バシュラール(1884-1962)は『火の精神分析』(せりか書房)のなかで、人間にとって、火をいかに支配することができるかが、生きていくための最重要課題であったという。
そもそも、人間はどのようにして火を手にすることが可能になったのか。
落雷や風による木々の摩擦など、様々な偶然で手に入れることはできても、それでは必要な時に、いつでも生み出すことはできない。
だから、いつでも火をおこせるようにするための知恵が必要であった。
たとえば、木と木を擦る。
棒を厚い板に押しつけて、両手で挟み、グリグリと回す。
そうして板にできた穴と棒の擦れる部位が熱くなり、やがて煙とともに発火する。
こうして、いつでも火を手に入れることが可能になった。
これを可能にしたのは、人間のもつ想像力が重要な役割をはたした。
有り体にいえば、発火の瞬間と性のエクスタシーの体感による類似を通し、火を生み出すことを想像する能力をかつて私たちの祖先は持っていたからであるという。
バシュラールはその様を性の比喩として、数多くの物語や文化の中で語り継がれてきているのだとも言及している。
うん、なるほどと思った。
翻って、マッチやライターなど、いま、火はあまりにも容易に手に入る。
しかもその火は、台所の片隅で管理され、制御され、炎すら見えないものまである。
こうした火を生み出すことの省略=便利さは、性の手軽さや不毛をも意味するように思う。
世の中に陰湿なセックスがこれほど反乱する時代はかつてなかった。
屈折した心が起こす性的な事件や犯罪。
その大半は、痛みや苦痛や優しさなど、本来ならば想像しえるはずの力が欠落しているからであろう。
いまや火ばかりではなく、おそらく、私たちの周囲を埋め尽くしている省略と便利さは、もともと人間に備わっていた想像力を瀕死の状態に追い込んでいる。
年の初め、一つ小さな決心をしてみた。
時々、焚き火をしに行こう。
ひょっとしたら、ここのところ鈍く燻りがちな、私の想像力にも再び、火をつけることが出来るかもしれない。
ともあれ、火をおこし、火を眺めて過ごす時間を作ろうと決めた。
明けましておめでとうございます。
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