第904号『三つ子の魂』

【つつじの花言葉は「慎み」「恋の喜び」】

4月9日は、ファンサイト有限会社の創立記念日。
3月末19期を終え、20期に突入する。
なによりも、支えてくれた仲間とお客様に、改めて感謝したい。
振り返ってみれば、一貫して自分の研究課題(ファンについて)を追求できたことが、何よりも幸せだった。
文字通り「ファンとは?」というワンテーマを突き詰めるために「ファンサイト有限会社」を創った。

こうした思考は「三つ子の魂百までも」ではないが、社会人として最初に就職した職場で得たやり方や、考え方がベースにあったからだと思う。

映画がTVに押され、衰退の一途をたどっていたが、そんな中でも10年ぶりの学卒採用試験があり、何の巡り合わだったのか日活株式会社に採用された。
当時、日活はそれまでの石原裕次郎や吉永小百合ら、青春路線からロマンポルノ路線に舵を切って3年目。
民事再生会社として、トンネルの先に見えるわずかな光を求め、必死に藻掻いていた。
こうした中、ポルノ映画を製作し配給するにとどまらず、石原プロのTVシリーズ『西部警察』用にスタジオをレンタルしたり、東宝の下請けとして西河克己監督のもとで『潮騒』『伊豆の踊り子』など、山口百恵と三浦友和のシリーズを製作し、糊口をしのいでいた時期である。
余談だが、石原裕次郎は昼から撮影所の食堂でビールを飲み、舘ひろしは上半身裸でバイクに跨り撮影所の中を走り回っていた記憶が、なぜか鮮明に残っている。

製作予算も労働条件も最悪だったが、それでも調布市染地の撮影所には、なんだか得体の知れないエネルギーが渦巻いていた。

『太陽を盗んだ男』の長谷川和彦がいた、『家族ゲーム』の森田芳光がいた、『台風クラブ』の相米慎二がいた、『探偵物語』の根岸吉太郎がいた、『櫻の園』の中原俊がいた、『ビー・バップ・ハイスクール』の那須博之がいた、何かを創りだしたと集まった若者たちがいた。
そして、みんな無名だった。

ある時、『八月の濡れた砂』の藤田(敏八監督)組の撮影現場にいた僕のところに回覧板が廻ってきた。
タイトルは「勉強会のお知らせ」だったと記憶している。
撮影所内の試写室で勉強会があると書かれている。
内容は、予告編だけを繋いだ上映会とある。
長谷川や森田が中心になっての企画だった。
この頃の慣例として、映画作品の劇場用予告編は第一助監督(1本の映画製作に3,4人の助監督が付く)が編集する不文律があった。
だから、例えば、『幕末太陽傳』の川島雄三監督の予告編は川島監督の助監督だった『にっぽん昆虫記』の今村昌平が作る。
例えば、今村監督の助監督だった『私が棄てた女』の浦山桐郎がそれを作った。
つまり、今村や浦山の作った予告編だけを集め、つなぎ、試写室で上映するというものだった。

この勉強会には止む得ない事情があった。
それは、ロマンポルノ路線前に日活で活躍した監督たちが民事再生企業となって、大量に解雇や退職し、教える人が粗方いなくなっていたから、致し方なく、自分たちでやるしかなくなっての勉強会だった。
最悪な状況ではあったが、自分たちで工夫し、与えられた環境の中でやれる最高の勉強方法と遊び方を見つけた。

それにしても、様々な縛りと最低最悪な製作環境の中でよくあれだけの作品群(月産2、3本の製作スケジュールだった)が生まれたものだと思う。
兎にも角にも、撮影所は活気があり熱気に満ちていた。

そして、なにより自由な雰囲気があった。
いわば、毎日が遊び場で学校で塾だった。

僕自身、仕事を始めたばかりの時、不安や自分に対する(何をやってもうまく出来ない)不甲斐なさを感じ、押しつぶされそうになったことも一度や二度ではない。
体調もおかしくなり、歯が抜けたり帯状疱疹にもなった。
でも、この勉強会に参加したことで様々な刺激を受け、これがきっかけで仕事の重圧から逃げず、他人のせいにせず、自らと向き合えれば、小さくとも良い結果に結びつくことも実感した。
こうして、自分を変えることで徐々に現実と向き合えるようになった。

ファンサイト有限会社の20年目の新たなスタートは、入社2年目と3年目の若いスタッフと、「ファンサイトマーケティング塾」と名付けた勉強会を開講している。
彼らを中心に「ファン」という研究テーマをさらに学び追求し、これからも仕事と全力で向き合いたい。