13日月曜日から、マスク着用が必須義務ではなくなった。とはいえ、街でマスクを外している人はほぼいない。予想するに、数ヶ月後もこの風景はあまり変わっていないのではないか。
コロナが猛威をふるい、様々な施策が講じられた。その中で、ウィルスを含んだ唾液飛沫から我が身を守るための術として、マスクが極めて有効な盾となった。こうして「唾」は、コロナ禍のなかで穢らわしさの象徴となった。さらに、マスクは他者との煩わしい関係の(言い訳としての)盾にもなった。
では、コロナ以前「唾」にはどんなメタファーが包含されていたのか。
例えば「唾をつける」とは、字義どおりの意味でもあるが、一方で、自分のものにする、あるいは、他人に渡さないために前もって関わりをつけておくという意味あいでもある。そういえば、子供のころ怪我をすると母はその傷口に唾を付けてくれた。するとなぜか痛みが和らいだ。父は両手に唾をつけ、エイヤと掛け声をかけ重い荷を持った。こうした事例をみてみると、「唾」には何からしら不思議な力が秘められてたことがわかる。
さらに「唾」について分け入ってみるならば、その究極のカタチが口づけである。口づけには2つの側面がある。1つはあいさつとしての口づけ、もう1つは愛欲としての口づけ。この違いは歴然としている。簡単に言えば「唾」の交換が有るか無いか。体内から湧きでる不思議なパワーとして、「唾」は痛みやモノや相手を引き寄せ、自分のものとして内在化するメタファーであり、手触りのある実感であった。
いまや、「唾」をつけることも、つけられることもめっきり少なくなった。痛みを和らげ、ものを引き寄せるパワーをもった「唾」ではなく、たんなる体内から出る液状の物質でしかなくなった。体内からでる「唾」という不思議を、科学と社会的通念(空気)が、コロナ菌やその他の感染菌による病という実態以上の恐怖によって隔離し隔絶したからだ。
それゆえ、除菌は極めて今日的なマーケティングテーマともなった。除菌ティッシュペーパー・トイレの便座シート・除菌テーブル用布巾・除菌まな板・除菌靴下・・・。そしてついに人間までもが、清潔と除菌という呪文にかかり、脱毛しつるりとした体毛のない身体願望や果はセックスや結婚の拒否に至るまで、そのことを体現しようとしているように感じる。それは他者との距離や関係性を測りかねているという時代の証でもあるのだろう。そうしてみれば、マスク着用義務がなくなった数ヶ月後でも、マスクで覆われた人々の姿が想像できるのだ。もしそうでないとすれば、一様に他人が外してると確信出来たときだろう。その時がいつになるかはわからないけれど、外していることが普通の世界を願うばかりだ。