第942号『傲慢という名の罪』

今朝、ドストエフスキーの『罪と罰』上下巻を読み終えた。

そもそも本を読むことは得意ではなく、かつ遅読。

しかし、読んでみたいと思っている本は数多くある。

気になる本をアマゾンでポチッとしたり、書店でタイトル買いをする。

そして、書斎の本箱に収まりきれず、仕事机の周辺に積んて置くことになる。

ビジネス関連書や雑誌の類には目を通すものの、日々の仕事や雑務に追われて、なかなか純粋に本を読むところまでには至らない。

ある日、アイデイアが思い浮かんだ。

書斎では仕事関連の本を読むとして、それ以外で気になる本は別な場所で読むことにしよう、と。

そして、一番適している場所はトイレだと思い至った。

こうして、トイレの壁に取り付けられた棚(トイレットペーパー置き場)に一冊づつ持ち込み読むことにした。

小さなルールも決めた。

・持ち込む本は一冊だけ。

・持ち込んだ本がどんなにつまらなく感じても、最後まで読む。

・読み始めと読み終わりの日付を記入する。

ちなみに、『罪と罰』の上巻は去年の10月23日から読み始め、終わったのが12月29日。

下巻は12月30日からで、読み終えたのが3月2日である。

ほぼ4ヶ月を費やしての読了である。

恥ずかしいほどの遅読である。

しかし、それにしてもこの『罪と罰』は手ごわかった。

登場人物が多いうえにロシア人の長い名前が複雑に絡み合い、加えて個々の心理描写も延々と続く。

まるで難行苦行であるが、それでも自分なりに理解できることも幾つか見えた。

この物語は、主人公である貧しい大学生ロジオーン・ラスコーリニコフがある想念に取り憑かれ、金貸しの老母とその妹を斧で殺害するという事件から始まる。

彼が抱いた想念とは、歴史上の英雄や天才のような少数の「非凡人」は、多数の「凡人」とは異なり、人類にとって有益な目的のためならば、ある一線を「踏み越えることが許される」、つまり罪を犯す権利を持つというものであった。

この『罪と罰』は、ドストエフスキーが1865年から1866年にかけて執筆したものだ。

150数年後のいま、そのロシアの指導者プーチンという為政者の心の中にも、こうした選民思想が渦巻いているのではないか。

いままさに、歴史的な暴挙として進行しているロシアのウクライナへの侵略。

一党(ひとりの)独裁が民主主義より優れていると言わんばかりの振る舞いである。

まさしく、選ばれし者が自国の利益になることを時間をかけずに実行できる。

愚民はだまってそれに従えばいいのだと。

それに比べ、民主主義は手間暇がかかる。

皆での議論を重ね、意思決定をし、決定されたことは責任をもって課題解決の努力をする。

今回のロシアの軍事行動は対岸の火事ではない。

一党独裁か民主主義か、どちらが人類の進む道にとっていいのか、いままさにそのことが問われている。

一刻も早く戦争の終結を願うばかりである。

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