妻と食事をしながらなにげなくTVを見ていた。ワイナリーのある風景に、吉永小百合さんがにこやかに佇んでいるCM(大人の休日倶楽部「新潟ワイナリー篇」)。あれっ!と思った次の瞬間、記憶がよどみなく甦ってきた。
20数年も前のことである。
大阪に本社を置く大手葬儀会社「公益社」の、東京進出コミュニケーションプランを任された。大阪を中心に関西では知られているが、東京ではほとんど知名度がない。広報宣伝担当の部長と侃々諤々しながら、その方法と表現をまとめた。いまだに田園都市線で、当時手がけた頑固親爺のイラストとその独り言をコピーにした車内広告を見かけることもあるが、この話しはまた別の機会に。
ワイナリーに繋がる思いでの発端から。 きっかけは、先ほどの葬儀会社で出会った広報宣伝部長のO氏。 葬送に関しての書籍を上梓するなど、現場を知っているだけではなく理論派でもある。柔らかな笑顔と問題をあぶり出し、刺すような指摘をする手強い得意先であった。ある日、O氏から「これはあくまで、個人的な誘いなのだが・・・」と、切り出してきた。彼の話しを要約すると、関わっている葬送のイベントが8月末に新潟であり、その集まりにボランティアとして参加して欲しいということであった。
新潟角田浜にある角田山妙光寺。この寺の境内には、共同墓『安穏廟』がある。いまや共同墓『安穏廟』は、寺の成功事例として、全国に知れ渡っている。このイベント『フィステバル安穏』に参加した。1989年に共同墓『安穏廟』は、家族・血縁による跡継ぎを必要としない墓として誕生した。NPO団体やメディア、研究機関などの関係者が中心となり、この共同墓の取り組みを支えていた。また、全国でも最初の試みということもあって、多くの研究者や学生の研究の場にもなった。
ここで出会ったのが『安穏廟』のメンバーでもあり、ワイン用ぶどうの自家栽培としては日本最大のワイナリー『カーブドッチ』を角田浜で経営していた落希一郎さんだった。彼の印象を一言でいえば、物静かだが強烈なオーラを持つ人。ボランティア活動を通してその人となりに触れ、すこぶる興味を持った。
現在はすでにこの組織から離れ、新たに北海道余市にOcciGabi Winery(オチガビワイナリー)を立ち上げているが、彼のワインに賭ける情熱がなかったなら、このワインの王国は到底実現し得なかったであろう。その物語の一旦をこれからお話したい。
彼の招きもあり、カーブドッジのぶどう畑に伺った。そして感じたことだが、僕がこの荒涼とした砂地が広がる風景をみて、ここがワインにとって豊穣の地であるとなぜ想像できたであろうか、と。 よしんば想像できたとして、その豊かさを勝ち取るまでにどれほどの意志と冷めない熱を持続できるであろうか・・・。
落希一郎さんという『熱の人』はトレードマークのチェックのネル地ワイシャツにジーンズ。ネコ(トロッコ)を押し、いつも土まみれになりながら精力的に園内を動き回っていた。一見して誰もこの男が社長とは気づかないだろう。
落さんは鹿児島県川内市の出身。叔父さんが北海道ワインの経営陣にいたことから、この道に入られたとの事。聞けば、東京外国語大学の学生時代左翼運動をやり過ぎ退学。その叔父を頼り北海道ワインに入社した。その後、語学の才もあり 20代後半にドイツ国立ワイン学校で勉強され、帰国後再び北海道ワインそして長野のワイナリーのサンクゼールと10数年間ワインづくりをした後、40代で独立、お会いした当時54才だった。
それにしてもワイナリーの場が、なぜ新潟角田浜だったのか。
落さん曰く、ワイン用ぶどうづくりに合う理想の土地を探し求め全国各地を歩き回ったという。
条件として、5月6月雨量が少ないことがとても大切で、その場所がこの角田浜だった。まさしく、理想の王国を探してこの地にたどり着いた。そして居を構え、ヨーロッパではごく普通で正統なワインづくりを続けてきた。
いまではめずらしくもないが、苗木を1本買うと10年間その年に獲れたワインを1本プレゼントするというシステム(僕もメンバーになった)。さらに、その園内の建物(結婚式場・レストラン等々)、ラベルやボトルのパッケージなど、どれをとってもデザインも見事である。
こうした素晴らしいコンテンツとインフラで、いまや数万人のファンをつくりそのファンの口コミだけで、ビジネスとして成立してしまうまでになった。たしかに価格も少し高い。ディスカウントストアーや街の酒屋で売っているわけではないから、入手も簡単でない。 目の前に見えるぶどう畑で栽培し、収穫した分のぶどうでワインをつくりぶどうの皮の蒸留酒マール(2トンの皮からわずか15リッターしか獲れないそうである、ちなみに日本でマールの生産量のもっとも多いのが、ここカーブドッチだそうだ)をつくる。 愚直だが確かなものづくりをし、自分のブランドを確立してきた。
20数年も前の記憶である。
帰り際に「落さんの次の夢は」とお聞きした。彼は顔面から溢れるような笑顔で答えた。 「フランスのボルドーのようにワインづくりの仲間がまわりに集る場(王国)としてこの地を育ていきたい」と。因みに、カーブドッチ CAVE D’OCCI(仏語)の意味とは、落さんの洞窟(ワイン蔵)の意だとも教えてもらった。
落さんの、ワインづくりにかける熱い意志が涌き出るように伝わってきた。そしてその夢の王国は現実のものとなり、吉永小百合さんがその地に佇みCMとなった。
5件のフィードバック
川村さん
カーブドッチワイナリーと安穏廟の話し覚えています
CMを観て川村さんが話していたカーブドッチワイナリーの話を思い出していました
今は余市でワイナリーを経営されているんですね
昨日 北海道から帰ってきたところで 今度 余市によってみようと思います
何か縁を感じるんですよね
一献傾けたいですね
野村さん、ご高覧ありがとうございます。覚えていてくれ嬉しいです。
是非、10月見明さんもお誘いして一献やりましょう。よろしくお願いします。
今号も、すごく楽しく読ませていただきました。
いつも、ありがとうございます。
冒頭の「大人になったら、したいこと。」が、出てくるのかなと思ってましたが、
まるで出てこず。落さんのお話から、最後の最後に、落さんの作ったブドウ園と吉永さんの結び。終わり方がめちゃくちゃかっこよくて、ブルっとしてしまいました。
頑固おやじのイラストと独り言のコピーの話も、ぜひまた、お話ください。
それと、共同墓の話も実に興味深いです。。。
聞きたいことがたくさんあって、もやもやしてます。笑
とにかく、今回の終わり方、カッコいいです!ありがとうございました。
ご無沙汰しております。
いつも主人と楽しく読ませていただいています。今回も素敵なお話しでした。
毎年主人と夏休みに行く新潟で、確か2002年頃だったと思いますが、初日は石地海岸の海水浴を楽しみ新潟市内の宿泊先へ向かう途中、左手には海、右手には時折広がるたばこ畑を眺めながらながら越後七浦シーサイドラインを走っているとと角田浜海に差しかかったあたりで、ワイナリーの看板を見つけました。そがカーブドッジでした。最初は、看板を見つけたのはよいものの、あまり人の気配もなく、ワイナリーに向かう道も砂利のままで、本当にワイナリーがあるのか恐る恐る入っていったのを思い出します。
川村さんの今回のお話しを読ませていただき、縁だなぁと感じております。
ちなみに、よく通っていた西新宿のフレンチレストランの支配人(高野さん)がカーブドッチの方とお知り合いで、レストランを辞めてカーブドッチの手伝いに行かれてしまいました。落さんとお知り合いかもしれませんね。
坂爪さま、ご無沙汰しております。コメントありがとうございます。励みになります。
共有する場所の思い出はいいものですね。またゆっくりとお話する機会がありましたら嬉しいです。
ご主人にもよろしくお伝えください。