第1004号『弟の命日』

7月12日は弟、俊二の二十三回忌。だからだったのか昨夜、久々に夢の中で47歳のままの弟に会えた。

ある朝、あまりの頭痛に耐えかね病院へ。CTスキャンで検査すると、脳に腫瘍が見つかり即入院。土曜日に入院し、水曜日には手術。そして、右半身に麻痺が出た。必死のリハビリを続け、なんとか退院した。それから2年と10ヶ月、しっかりと生き抜いてくれた。

僕の代わりに家業の時計眼鏡店を継ぎ、地元の商工会や、ねぷた祭りも先頭に立っていた。178センチ、110キロの身体。学生時代、柔道で少しは知られた存在だった。誰からも信頼されていた。僕が帰省したときは、待ち構えていたかのように、もっと活気のある町にするためにはどうしたらよいかと、夜遅くまで話をした。映画が好きで、バイクにまたがり、笑顔がさまになる男だった。はじめての甥っ子が生まれた時、本当に喜んでくれた。馬が合うのか、帰省の度によく遊んでくれた。

これは、倅から聞いた話しだ。“叔父さんが亡くなる少し前、呼び出され、ふたりで話しをした。「俺はお前のことが好きだ。でもお前は、俺のことを忘れてしまうんだろうな。この世界は俺がいなくなっても、なんの変わりもなく明日を迎えるんだ」そう言われて、その時は何も答えられなかった” と。それから月日が経ち、倅は『世界から猫が消えたなら』という小説を書いた。脳腫瘍で余命わずかとの宣告をされた男が、一日の命と引き換えに、世界からひとつずつ物を消していく・・・。書きながら、倅はあのとき答えられなかった叔父さんへの答えを出そうとしていたことに気付いたという。

ふと、三回忌の時のことを思い出した。弟の遺族と両親を伴い、城から程近い、三十三もの寺が立ち並ぶ禅林街と呼ばれる寺町の一角にある菩提寺へ向かう。山門をくぐると参道には杉木立が並ぶ。僕たちを出迎えてくれているかのように 、蝉しぐれが頭から降っていた。法要も済み、寺から両側を夏草で覆われた弘前土手町を横断するように流れる土淵川、その川に架かる黄昏橋を渡り、単線の弘南鉄道の線路を跨ぎ、元はシードル工場だったレンガ倉庫(今では奈良智美の弘前犬が展示されている美術館になっている)の脇を通って父の贔屓にしている蕎麦屋へ。気が付けば、町内の空き地に祭り小屋が建ち始めている。これから1ヶ月、笛を吹き、鐘を鳴らし、太鼓を叩き、酒を飲み、扇方の型を組み、灯りを仕込み、和紙を貼り、泥絵の具と蝋で武者絵を描き、送り絵と呼ばれる 優麗な美人画を描きあげていく。8月の祭の初日まで密かな悦楽の日々が祭り小屋のなかで繰り広げられる。 こうして、祭の準備は無口な祭衆を、祭の幕があがるその日に陽気で多弁な生き物に変える。

ねぷた小屋を通り過ぎた時、祭りの大好きだった弟がひょいと幕を開け小屋から出てくるような気がした。 「やーやどー」というねぷたを運行する時の掛け声とともに。

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