夕方、妻とスーパーマーケットに出かけた。あれやこれらと品定めをしながら、店内をぐるりと廻る。野菜売り場のとなりに人集りがあり、なにかあるのかと近寄ってみた。その棚には、賞味期限が近づいたモノや、少しキズのある野菜や果物が値引き価格で並んでいた。僕らも慎重に選び、必要なものを買い物かごに入れた。金額にすれば数十円程度の割安感しかないのだろうが、その数十円を気にしなければならいほどに、いま物価が高騰し暮らしが逼迫している。事実、国内で流通している品物の7割が値上げしているという。その防衛策として少しでも安いものを買い求めているのだ。
貧しくなっていく日本。一億中流幻想は、もはや歴史の教科書でしか見ることができないし、勝ち組や新富裕層と言われている彼らの繁栄とて、いつまで続くのかも定かではない。どだい永遠の成長などありえない。歴史的に見ても、腹一杯食べられ、旨いマズイと言えたのも戦後のわずか60年。この60年は極めて稀で特殊だったのだ。古来より日本人は、皆いつも貧困に喘いでいた。江戸も明治も大正も、戦前の昭和も、どの時代にも飢饉や餓死はあったし、人身売買も公然だった。そして今また、そんな状況に近づいている。
「貧困の復活」。貧困は労働市場での構造的な「貧困」と、社会生活による精神的な「貧困」とが表裏一体となってたち現れる。つまり、お金を得るために心を踏み絵にする時代、自分の良心を裏切らないような、他人を傷つけないような職がほぼ皆無の時代。ますますお金がなければ「生きていてはいけない時代」の到来である。
この事実は我々庶民ばかりでなく、一部を除き多くの企業もまた大きな苦境に対面することになる。それは一言で言えば「モノを中心に置いた経営」の限界。大量生産による大量消費という近代的生産様式は、自然からの収奪を無限にできるという倒錯に基づいている。このまま発展し続けるならば、どこかで破綻をきたすことになるのは誰の目にもあきらかである。安価なモノ・人などの資源を求めて世界を飛び回ってもそれが企業成長に結びつくどころか、自身の首を絞めることにつながることはもはや自明である。
世界人口の20%に満たない先進諸国に住む人々が、地球資源の80%以上を消費している。その一方で5秒に1人の子供が栄養不良で死亡し、30億人の人々が1日2ドル未満の生活費で暮らしている。こうした状況はむしろ悪化しているといわれる。一方、日本ではいまだに30年を超える終わらない不況という現状を、「これはいつか終らなければならない」というありもしない幻想のうえで語られ続けている。右肩上がりの好況が普通のあるべき姿で、いまだに不況という状況は特異な一時の姿であるとする考えである。
人はしばしば原因と結果を取り違える。結果を原因にしたとき「失われた30年」という物語が生まれた。分析という合理はいつも後から追いかけ、いつの間にか現実という事実を追い越す。有り体に言えば「21世紀はこの不況と呼ばれる現状が恒常的な日本の姿」なのである。「所得倍増」という為政者の言葉が空虚にひびく。
これまで「再生」と「成長」はセットで成立していた。それは仮死状態にある日本の経済や社会の病理を突き止め、さらなる拡大再生産をしていくための処方箋として語られてきた。しかし、これからは「いかに、自分と自分をとりまく地域にとって持続可能な方法を共有するか」を目指すことと、自らの矜持と作法を取り戻すための物語を紡ぐことが「再生」の本来的な意味ではないかと考えている。