第1021号『脳裏の底に沈んでいた古い記憶』

先日、お得意先の催事に参加するため、赤坂の鎮守の杜に出掛けた。11時から始まり、1時間ほどで終わった。続いて、隣接するザ・キャピトルホテル東急で昼食を兼ねた宴が用意されていたので移動する。ホテルのロビーに入り、ふと古い記憶が蘇った。

僕は40代の一時期、VAN(ヴァン)ヂャケット倒産後、VAN宣伝部の中心メンバーによって創立した会社に所属していた。

VANヂャケットと聞いて、懐かしいと思われた方々は60代以上であろう。大袈裟ではなく、その存在は単なるファッションメーカーの域に留まるものではなかった。ジャケットやシャツなどのウェア類はもちろん、ノベルティグッズやポスター、専門店舗の展開、さらにVAN99ホールというイベントホールを自社で持っていた。このホールでは、つかこうへいの芝居やダウンタウンブギウギバンドのコンサートも興行した。そして、ヴァンガーズという、企業として日本初のアメリカンフットボールチームまで有していた。マーケティング、キャンペーン、ギブアウェイといった当時最先端の手法を駆使しながら、まさしく、時代の風を作り文化までも醸成した伝説の会社だ。

僕の主な仕事は、アシックスのウォーキングシューズ部門の販売促進と、公益社の東京進出のためのマーケティング業務だった。公益社は上場企業として大阪では知られた葬儀会社であったが、当時、東京ではほとんど無名だった。したがって広告広報活動は極めて重要なものであった。新聞折込チラシのほか、営業用のチラシやパンフレット、交通広告の類も数多く制作した。広報誌「一期一会」も、そうした中のひとつだった。葬儀を取り巻く様々なコンテンツを掲載した。また、特集記事として毎回、ゲストをお招きし、その方の死生観を伺った。第1回のゲストは、元VANヂャケットの代表だった石津謙介さんにお願いした。我々、後輩に対する思いやりもあり、取材もスムーズに進み内容的にも、とても好評だった。これに気を良くし、第2回目のゲストは関西圏で人気があり、日テレと読売テレビ制作の深夜枠「11PM」で司会をしていた作家の藤本義一氏にお願いした。当日カメラマンとライターを伴い、予約したザ・キャピトルホテル東急の部屋で取材を始めた。ところが、この日、先生のご機嫌が思わしくない。なかなかライターの用意した内容に答えてくれない。いやむしろ、時間が経過するにつれ、どんどん不機嫌になっていく。どうしたものかと思いながら必死に考えていると、ある閃きが浮かんだ。”映画の話をしてみよう”、と。

以前読んだ雑誌記事で、藤本先生は映画監督川島雄三に師事し、脚本を学んだということを思い出した。僕自身、日活に学卒で入社したが、その大きな動機のひとつが日活撮影所で作られた映画『幕末太陽傳』だった。この作品の監督が川島雄三だ。(もちろん、僕が入社した時には川島雄三は故人であった。)この作品は日本映画史に残る傑作の一つである。加えて、川島雄三と僕は同郷である。こうしたことを話し始めた。藤本先生は「君、どうして、川島雄三監督知ってんの」と言われ、途端に仏頂面がにこやかなそれに変わった。こうして、このあと取材はスムーズに運んだ。

二十数年も前の記憶である。改装された現在のザ・キャピトルホテル東急はかつての面影など微塵もない。それでも、鎮守の杜がもつ気(エネルギー)が、僕の脳裏の底に沈んでいた古い記憶を呼び覚ましてくれたのかもしれない。

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