格差社会の象徴ともいわれる「ネットカフェ難民」、この定住を持たない人たちが毎日、5,000人以上も漂流している。
その多くは、定職を持てず、仕事があっても時間給的な労働形態の人が大半だと聞く。
「ワーキングプア」、働いても働いても貧しくなるばかり。
そんな状況が続いている一方で、景気拡大、大企業の増収増益の記事が経済面を飾っている。
それは、正規雇用ではない人々からの搾取で成り立つ栄華とも映る。
名古屋市の磯谷利恵さん(31)が28日、拉致・殺害された。
携帯サイトに「闇の職業安定所」という犯罪を受発注するサイトが存在しているという。
このこと自体驚きであるが、それまでなんの面識もない者同士が徒党を組み、犯行に及んだことにも薄ら寒さを感じた。
しかも、金品を奪うに適な対象として弱い女性を狙った。
襲う相手は誰でもよかったという。
偶然といえば、あまりに不毛であるが、その偶然によって磯谷さんは被害に遭われた。
何か、底が抜けたような凶行に言葉を失う。
そして、磯谷さんとご家族のご無念に胸が締め付けられる。
ご冥福を祈るばかりである。
「ネットカフェ難民」も「闇の職業安定所」も、問題の根幹はどこか奥底の部分で繋がっているように思えてならない。
これまで、個々の自助努力により、未来に向かって物事が良くなっていくことが自明の理だった。
この近代(モダン)の基本は、科学・産業・経済・芸術・国家・哲学の全てにおいて「進歩史観」に基づいている。
この考え方を「物語」にすると「日常に流されている主人公が現実に潜む問題に目覚め、自分の意志で状況を改善しようと行動する」という展開になる。
「啓蒙→主体の確立→全体の進歩」ハリウッド映画ばかりではなく、多くの分野での文脈は、この「物語」によって支えられてきた。
リオタールは『ポスト・モダンの条件』のなかで「ポストモダンとは『大きな物語』が信じられなくなること」と言及している。
この「進歩という大きな物語」は実のところ単なる物語=フィクションにすぎなかったことが判明して久しい。
努力してもどうにもできない現実。そして、かろうじて支えていた共同幻想の底も抜けてしまった。
私たちは、いま、新たな「物語」の手がかりも、向かう先も見つからないまま「格差社会」という海を漂流している。
しかし、それでもその先があるとすれば、それは新しい夢を見る力を信じることだ。
アイルランドの詩人W・B・イエイツは詠う。
「新しき夢を、新しき夢を」と。