地震、そして押し寄せる津波が全てを飲み込んでいく。
それを為す術もなく、ただ呆然と見続ける人々。
原子炉の建家から上がる煙と、放水車からの水飛沫。
逃げまどい避難する人々の姿。
都市交通の麻痺で、自宅まで黙々と歩き続ける人々。
商品のないコンビニやスーパーマーケットに群がる人々。
瓦礫と化した街で肉親を探す人。
避難所で途方にくれる顔、顔。
2万7千人を超える死者、行方不明者。
20数万人以上の避難民。
数年後、振り返って、様々な価値の変容がこの3.11から始まったのだと思う日が来る。
そんな予感が頭をかすめる。
この一週間、これまでの人生で、こんなに長い時間、しかも、ぶっ通しでTVを見続けたことはなかった。
いや、片時も目を離すことが出来なかった。
たしかに「想像を絶する経験をした」と言うことなのだが、実感としてまったく掴めない。
まだ、なにか悪夢の最中にいるようでもある。
そもそも、この数日間の出来事は、どれもコトバとして形容されることを拒んでいるかのような事ばかりである。
こうして映像を見続け、こころに刻まれたことがある。
各々にそれぞれの親子、夫婦、友人、知人との深い絆と生活があり、共に生きているのだという、当り前のことを改めて感じさせられた。
映し出された人々には、無機質な他人ではない。
ある意味、みんな孤独だけれど、孤独ではないのだと。
家族、郷土、民族、働く、生きる。
僕たちは、これから、これまで積み残し、後回しにしてきた根源的な問いと、間違いなく向かい合うことになる。
ふいに、ランボーの詩が口をつく。
「科学。新貴族。進歩。世界は進む。何故逆戻りはいけないのだらう」
僕にとって、この3.11から始まった出来事の意味は、まだ、なに一つ判然としていない。