第489号『父の言葉』

【父との会食】
【父との会食】

週末、義妹に伴われ上京していた父と1年ぶりで会った。
父は1921年、大正10年10月1日生まれ、もうすぐ91歳になる。

この日、僕の長男家族、姪っ子たちも一緒に横浜中華街で昼食を摂った。
幾分、痩せたようにも見えたが、まだまだ食欲も旺盛で安心した。

父の青春は、ほぼ戦争と共にあったと言っても過言ではない。
1942年、19歳で徴兵。
時計修理技工士として働いていたからか、徴兵後、セイコー(服部時計店精工舎)の測量機部門、トプコン(東京光学)で火砲・大砲などの照準眼鏡機の修理・保守を学び、満州へと派兵された。

1945年8月、日本は敗戦したが、ソ連軍は日ソ中立条約を一方的に破り参戦、黒龍江(アムール川)を渡り侵攻してきた。
もはや、軍の体を成していない日本軍は行方も定まらぬまま、ただ逃げまどうばかりだった。
そして、間もなくソ連軍の捕虜となり、シベリアへ抑留。
それから3年、極寒の地で、来る日も来る日も原野の伐採と鉄道施設の工事に明け暮れた。
食事として与えられるのは、わずかに塩味のあるスープと、歯が折れるのでないかと思うほど固い黒パン。

ソ連に拉致された日本人は60万人。
そして、こうした重労働のなかで死んでいった人々の数、6万人。
1948年 26歳で、ようやく抑留から解放され、舞鶴港へと引揚げてきた。
船上から祖国の地が見え、その鮮やかな松の緑に、滂沱の涙した。

みなとみらい線、元町・中華街駅で見送る。
別れ際、父になんとなく尋ねてみた。
「中国や韓国との関係どうなるのかな・・・?」

「・・・・・・・・」
しばらく、間があり、もぐもぐと屈もった声が聞こえた。
「どんなことがあっても、日本は二度と戦争をしてはいかん」と。

僕は言葉もなく、また会えることを願いながら、父の手を握った。

3件のフィードバック

  1. ご無沙汰しております。お父さんの言葉・・重いですね。
    お父さん大事にしてあげてください。
    しかし、日本人は人が良すぎますね。なんでソ連にこの件で文句を一杯言わないんですかね。中国や韓国は何年経っても文句ばかりですね。

      ウインダム:渡邉秀康

  2. 渡邉様、ご無沙汰しております。コメントありがとうございます。父の言葉、僕らの世代が次の世代へとリレーできるよう深く、重く受けた止めたいと思います。

  3. 弘前のお父さんのことばに心して想像力を働かせてよみました。いま伊集院 静の『お父やんとオジさん』を読んでいるところなので、当時の人々のあのころの思いをよく考えてみます。朝鮮半島におきてしまった悲劇は僕らの想像を超えて今もつづいています。
     僕の母親は大正11年生まれの90歳、昨日までの一週間あまり沖縄に。付き添いで兄の家を訪問しました。『家族っていいな』と同行した娘がいいます。何年ぶりかで会ってもいなかの昔の家族の関係にすぐもどってしまう。都会育ちの娘には違う世界が垣間見えるらしい。

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