人生60も超えれば、好みの変えようもないほどに舌は出来上がって(頑迷ともいうの
だが)いる。
だから、食卓には旬のもので、ふつうのおかずがいい。
時折訪れるハレの日にも、家で食べるならややこしい名前のついた洋風料理よりは、
すきやきが食べたい。
具材は肉の他に焼き豆腐、青ネギ、糸こんにゃく、麩、たまに好みでクレソンを入れ
ることもあるが、概ねそんなところだ。
我が家では、すきやきの調理開始と同時に儀式のような所作がある。
1.まずは鍋で肉を炒め、頃合いを見計らって、粗目砂糖を入れ、だし醤油をさす。
2.肉の赤みが、まだほんのりと残っているうちに摘まみあげ、予め用意しておいた
溶き卵に潜らせ、口に放り込む。
3.少し間を置き、口腔にひろがった肉と卵のねっとりとした甘辛さを、これまた用
意していた、冷えたビールで残った旨味を余すところなく喉奥へと流し込む。
まずは、この一連の動作を執り行う。
ここまでくれば、あとは流れに任せ他の具材も入れ、箸を動かすことになる。
こうして歓楽の夜は更けてゆく。
さて、すきやきの妙技は翌朝にある。
残った煮汁に、数本の糸こんにゃく、肉片、焼き豆腐の欠片、くたくたになったネギ・・・
火をつけ徐々にあたためる。
すると、すべてが混在した美味の封印が解かれ、ひたひたと甘辛い匂いが立ち上がる。
すべからく、男子はこの甘辛に弱い。
ここで、汁の残り具合をみながら溶き卵をおとす。
そして、おもむろにゴハンを投入。
しかして、飯碗に盛り掻き込む。
犬、猫の餌と言うなかれ。
(最近のペットフードはもっと高尚であるが)
食べ終わった後の満ち足りた気分、これに勝るものを知らない。
書きながら気が付いた。
ここ暫く、ハレがましいこともなかったから、すきやきを食べていないことに。
さて、今夜あたり、すきやき交渉で妻におべんちゃらのひとつでも言ってみるか。
「ありがとう、いつも美味しいもの作ってくれて。愛してます」