「6月末、関東を中心に停電発生か」の記事を新聞で見た。
東京電力の原子力発電データ隠蔽・改ざん問題が波及し、いま、原子力発電16基が止まっている。
全てが暗闇に浸された街を想像してみた。 すこしワクワクし、ドキドキした。
あるものを理解するために、それと似たものを記憶の中から探すことがある。
例えば、見知らぬ土地を訪れた時など、その街並みや風景を観て、それまでの自らの体験や経験を記憶のファイルから引っ張りだし、似たような場所や出来事を当てはめようとする。
それは、おそらく初めての場所に対する不安や恐怖から身を守ろうとする所作だったり、かすかな期待や興奮の記憶が精神運動として作用するからであろう。
1990年夏、ベトナムに旅した時の記憶が蘇った。
タイからサイゴン(現ホーチミン)へ空路で入る。
空港から車で移動、途中スコールが来た。
あまりに激しい雨で人も、牛も、車も身動きできず、立ち止まる。
人びとはただ呆然とその雨が通り過ぎるのを待っていた。
儀式にも似たこの雨待ちは滞在していた期間中、毎日やってきた。
そしてもう一つ、ほぼ毎晩のように止まるものがあった。
停電である。
電気が消え、街は闇に包まれた。
最初は驚いたが、しばらくするとなんだかその闇が心地いい。
ちょっと怖いけど、妙に楽しい。
風呂に浸かっている時ならヒタヒタと水の音が際立つ。
そして手と足が、体全体がすっぽりと水に包まれているように感じた。
あるいは、食事の時なら、動かしていた手と口を休める。
そうすると不思議なことに食べ物の臭いが際立ってくる。
そして、しばらくするとアオザイ姿のウエイトレスが、各テーブルに蝋燭の火を燈しに来る。
それはまるで灯りに舞う薄羽蜻蛉のように見えた。
灯りのもとにすべて見えていたと思っていたものが、灯りが消え、見えていた風景と流れていた時間が変わった。
ともあれ本来、そうしたすべの感覚が備わっているのが人間の身体であることにも気付いた。
ところでどうやら、経済産業省大臣の突然の「安全宣言」と原発を抱える地元への「謝罪劇」で残念ながら暗闇の夜は来ないようである。
なに一つ問題の結び目を解いてはいないのに・・・。
なんという予定調和と欺瞞。
それにしても、いまさらながら煌々と照らされた街の電飾に 集まる蛾は見たくもない。
ならば、せめて家の明かりを消し、揺らぐ蝋燭の炎で過ごしてみるか。
ひょっとすると、今夜あたり季節はずれの薄羽蜻蛉が現われるやもしれない。