第663号『梅雨時、師と酒を交わす』

IMGP66191【師の後姿と縄のれん】

先日、TVで「アルプスの少女ハイジ」のアニメーションが流れていた。
懐かしいと思った。
しかし次の瞬間、何か違和感を覚えた。
まったく中身が違う。
それは「アルプスの少女ハイジ」のアニメ動画を使った個人指導塾のCMだった。

そして、ボクのマーケティングの師、顧問の宇田一夫が、新宿中村屋の事例で教え
てくれたマーケティング手法のことを思い出した。

1901年(明治34年)に始まる新宿中村屋の創業者は相馬愛蔵という。
しかし、屋号は「相馬屋」ではなく「中村屋」とした。
当時、パン屋を開業したいと考えていた相馬は「パン屋を譲り受けたい」と新聞広告を打った。
それに応じたのが、本郷にあったパンの「中村屋」であった。
「中村屋」は地元では、そこそこ知れた店だった。
新たな屋号を広めるには、多大な広告費がかかる。
さらに、もともと付いていたお得意様もそのままにしておきたい。
そこで、あえてこれまで通りの屋号「中村屋」を使った。
相馬は自分の虚栄心、見栄ではなく知恵を働かせ実利を取ったのだ。と。

この手法は巧みである。
なぜなら、人の頭のなかにある古い記憶(「アルプスの少女ハイジ」の映像)を使いながら、新しい情報(個人指導塾の告知)を刷り込ませているからだ。
人は基本的に保守的なものである。
新しい情報を届けたいと思ったら、よく知られている物語を使うのが効果的だ。
最近では、auの三太郎CM、桃太郎、金太郎、浦島太郎を使ったものも、この部類だろう。

さて、今年も、師と燗酒を飲み交わす季節になった。
ある日の午後、宇田が教えてくれた。
「川村くん、燗酒は梅雨時がいちばん旨いんだ、その理由は、発酵が適度に即され、酒の塩梅がよくなるからだ」と。

では、と、師を急かした。
向かった先は、神楽坂。
十数年前のことである。
坂を登り切った路地裏にある居酒屋。
少しむっとする生温かな梅雨の夕暮れ時。
開店と同時に、木造平屋の入口脇に吊るされた提灯に火がともる。
宇田に誘われるまま、縄のれんをくぐり、障子戸をあけて店内に入る。
思いの外、暗くひんやりとしている。
目に飛び込んできたのは、煌々と輝く真っ赤な炭火。
そして、その傍らには、一心不乱に火加減を気にしながら燗酒の頃合いを見ている男。
彼がこの屋の主。

案内された席につく、そして宇田がなにやら小声で注文した。
暫くして、小皿に盛られた数種の肴と燗酒の入った徳利とお猪口が運ばれてきた。
酒は、灘の男酒「白鷹」。
口に含むと燗酒独特のふくよかな味わいなのに、きりりとした舌触り。
あの時の酒の旨さは、いまも忘れられない。
あれから毎年、梅雨時になると決まってこの店を訪る。

宇田が亡くなって、5回目の梅雨時。
縄のれんをくぐれば、いつもの席に師が座って待っているような気がする。
今年もマーケティング談義をしながら、師と一献交わす季節になった。

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