【佐藤敬之助再考】
例えば、欠伸をしているところを、たまたま通りがかりの上司に見られた。
例えば、久々に時間がとれプールに行ったら休館日だった。
例えば、悪口を言った相手が、後ろに坐っていることに気がつき慌ててしまったりと、
間が悪い思いをしたことは、大なり小なり誰にでもある。
逆に、いつもは客で賑わう人気店なのに、たまたま空きが出てスッと入れてしまった
り、予定していた電車に乗り遅れたと思っていたら、列車の時間間隔の調整で頃合い
よく乗れたりと、間がいいこともある。
「間」と「タイミング」はほぼ同じ意味で使われることが多いが「間が悪い」「間が
いい」の「間」には、「タイミング」の問題だけではないニュアンスが含まれている。
大学3年の時、タイポグラフィ(文字の書体や大きさなど、印刷用活字のこと)を学び
たいと思い立った。
そこで、市ヶ谷にあった日本エディタースクールに半年ほど席を置いた。
ここで出会ったのが、故佐藤敬之助先生だった。
佐藤先生は日本タイポグラフィ協会の創設メンバーであり、桑沢デザイン研究所、武
蔵野美術大学でタイポグラフィの教育に携わり、アートディレクター浅葉克己氏の師
でもある。
先生は、東京帝国大学で動物学を学び、その後京都の寺で僧として仏の教えを学んだ
という、少し変わった経歴の持ち主であった。
先生と文字との出会いは、この寺で写経を重ねるうちに、その魅力に取り憑かれたと
いう。
先生の授業は、どれも興味深く面白かったが、なかでも印象に残っているのが「間」
についてのお話だった。
師曰く。
「間」という文字は旧漢字では、門構えに月と書く。
先生は、黒板に門と、夜空に浮かぶ月を描いた。
そして「閒」とは、門の扉の隙間から漏れる獏とした月の光の様(漢字は表意文字で
ある)を言うのだと。
掴めそうで、掴めないもの。
無いけれど、有るもの。
だから「間がいい人」の行動とは、見えないものや、掴めないものに対して、閃きや
直感を大切にし、絶えず自分自身と周辺にアンテナを張る人のことだ。
そして、直感的に「これはやった方がいいな」とか「あの人に連絡してみよう」など
の閃きを大切にし、準備し、問題が起きる前に回避できるように動く。
もし、間が悪くなってきたら、自分の行動を振り返ること。
悪い時も良い時も、腐らずおごらず、謙虚に、今の自分を見つめることが肝要だと教
えていただいた。
師の歳に近づき、改めて文字の力を感じる日々である。