第757号『映画「道」のこと』

【メリーゴーランド】

12月1日は映画の日。
もちろん、映画の鑑賞方法にルールなどない。
ただあえて言えば、僕は監督にこだわる。
だから、好きになった監督作品は、過去にさかのぼってほぼ全作品を観る。

学生時代、今のようにDVDで簡単に観ることができなかった。
その代わりに、新宿、渋谷、池袋といった繁華街ばかりではなく、大塚、蒲田、大井町と
いった場末(70年代80年代の頃はそんな雰囲気があった)の単館系のマニアックな劇場
では、ありがたいことに監督特集週間というのがあった。

こうした映画館で、好きな監督の作品を手当たり次第片っ端から観ることができた。
ジャン=リュック・ゴダールと大島渚は新宿で、黒澤明とルキノ・ヴィスコンティは渋谷
で、ロバート・アルドリッチは大森で、川島雄三は千石で観た。
ところがフェリーニは、なぜか見逃していた。

フェリーニとの初めて出会いは、近所のレンタルビデオ店でだった。
誰からのリコメンドなのか忘れたが、いまだに観ていないことを酒の席で失笑され、憮然
とした面持ちで借りたことを覚えている。

自宅に帰り、VHSのデッキに差し込み観た。
すると、字幕はなぜか韓国のハングル語、音声はイタリア語。
数分あれこれいじくりまわしてみたが、まったくお手上げ状態。
明日にでも取り替えてもらおうと思っていたが、なんとなく、映像が流れるままに見ると
もなく見ていた。
そうこうしながら、しばらく観ているうちになんとなく(もちろん、韓国語もイタリア語
も知らないのだが)分かるのだ。

役者の表情や身振り、場面の雰囲気や展開などで・・・。
そして、ニーノ・ロータの音楽が説得力を加味してくれる。
後で、再度日本語の字幕で確認したが、ほぼ間違なく理解できていた。

おそらく、この映画が特殊なのだ。
純粋さと野卑さ、柔順と傲慢、聖と俗・・・
その対比が女と男を通して描かれている。
そして、その果に訪れる愚かな結末と後悔の念。
ラストシーンで、ジェルソミーナ(ジュリエッタ・マシーナ)の死を知り、浜辺を彷徨う
ザンパノ(アンソニー・クイン)の姿に、涙が止まらなかった。

この映画で好きなシーンはいくつもある。
中でも、特に好きな場面である。
ザンパノと共に旅のサーカス一座で働いていた時のこと。
ジェルソミーナが「自分は何の役にもたたない人間だ」と泣きながら語る。
それを静かに聞くのは、密かに彼女を愛する綱渡りの芸人、イルマット(リチャード・ベ
イスハート)。
彼は、地面に落ちている小石を拾い上げながら「この世の中にあるものは何かの役に立つ
んだ」と言い、去っていく。

映画「道」は、誰の心にも響く根源的な何かがある。

「甘い生活」(’59)、「8 1/2」(’63)、「アマルコルド」(’73))、「カサノバ」(’76)、
「そして船は行く」(’83)
「道」以降、唯一無二の映像世界を構築したフェリーニの作品群を観てきた。
その中にあって「道」は、いまも僕にとって特別な輝きを放つ作品である。