【ドール】
いまでは当たり前のように思われているが、利己
主義がもてはやされ、金儲けに長けた人が能力が
高く、優れているという幻想に覆われてから随分
と時間が経った。
この間、僕たちは「行い」ではなく、家や車など
の財産や、どれだけ珍しい体験と美味しい食事を
食べたかといった「所有物」によって評価される
ようになった。
これが、資本主義の罠だ。
資本主義の下での自由競争(新自由主義)は、個
人をコミュニティから引き剥がし、バラバラに分
断する。
そして、個々の欲望(すべて自己責任であり、他
人に迷惑をかけないなら、自分の好きなことを好
きなだけやれる)を満足させる仕組みである。
僕たち(日本人)は、この利己主義に飛びついた。
そして、個人が喪失した。
個人とは、それぞれに個性を発露する別々の存在
である。
そもそも、「僕」と「あなた」とは違う。
だから、その違いを認め理解する(ギャップを埋
める)ために会話をする。
その行為こそが、協力し社会を形成する第一歩と
なる。
しかし、新自由主義は個人の行動を、そしてその
存在を同じものに(均質に標準化)した。
同じ存在であれば、簡単に交換できる。
だからいま、「人の標準準拠」が起き、さらに進
行している。
平たく言えば、人の標準準拠とは「誰もやってい
ないことをやる」のではなく、「みんながやって
いるから私も」やりたい。
「みんなが並んでいるお店だから、私も並びたい」
ということだ。
今年の夏、リクルートキャリアが運営する就活支
援サービス「リクナビ」がAIを使って学生の内定辞
退率を算出し、企業に販売していた問題が、大き
な波紋を広げた。
ビックデータなど、AI技術は人力の省力化のため
の道具である。
しかし、一方で(ビックデータなどでの)蓄積し
たデータによって個人の行為や嗜好が分析され、
評価されている。
自分と似ている他人の行動パターン(人間を、あ
たかも情報のように取扱い)によって個人が評価
されるのは、まったくもっておかしな話である。
そもそも、人間個々の想念や死生観を分析するこ
とは出来ないし、意味もない。
借りに分析できたとしても、AIを人間関係の解決
のために使ってはいけない。
覚悟を決め、僕たちはこれから、「人の標準準拠」
に抗い、「個人」を取り戻すための、長い長い戦い
を始めなければならない。