第94号『ターゲット』

企画書を書くことが時々ある。
企画意図、現状分析と問題点、問題解決のための施策と今後の展開などの他に、ターゲット設定という項目もある。
企画を実施するにあたり、実施対象となる人物像を設定する。
そうすることで、企画の現実味が増し、全体像を把握しやすくなる。
それは女子高校生の場合もあれば、50歳代の団塊の世代を想定することもある。
それぞれに個性があり、生活があり、こだわりもある。どこに住み、休日はどんなことをして、趣味は、家族は、などなど、よりリアルなターゲット像が書き記される。

しかし正直なところ、女子高校生のその足下がルーズソックスであろうが、紺のハイソックスをはいていようが大差はないし、終電で見かけるくたびれ果てたサラリーマンの姿は、どれも恐ろしく均一化しており、そこからそれぞれの異質な個性やこだわりを見つけ出す作業は容易ではない。
だから、結局のところ、ターゲットの項目を埋めるため、一般的な定型や記号としてのA子さん16歳高校生とか、B太郎さん54歳サラリーマンとなる場合も多い。

自分にもかつて高校生の時代があり、20代も30代もあった。
その時代を文字通り、身をもって体験してきたにも関わらず、いま現在の20代や30代の若者がどんな生活を送り、何を感じているのか、実のところ想像もつかない。

では、もっと身近な人々、例えば、友人や家族、親兄弟のことが分かっているかと、あらためて自問してみると、むしろ分からないことだらけであり、理解していない事柄の多さに愕然とする。

脳腫瘍のため、3年間の闘病の果てに47歳で他界した弟の見舞に、時々帰省していた。

右側頭葉にできた腫瘍を摘出したため、左半身の運動機能と発声機能に障害をきたした。
しかし、それでも彼とは限られた時間のなかで随分といろいろな話しを交わすことができた。
そうして、弟のことなど、なにも分かっていない自分を発見した。

そんな経験があったからか、いまでも他愛のない冗談や、日常の会話で事足りている関係にある相手のことを、どれほど理解しているか、といえば答えは極めて悲観的になる。
家族、隣人、同僚など、その人々の本当の中身など分からないというのが事実である。

もう少し有り体に言えば、いま、私たちは他者という鏡を見つめることを止め、不可解な他者と向き合う姿勢と忍耐を放棄している。
そうして、鏡に映るのは揺らぐ自分の姿ではなく、矢の的のように標的(ターゲット)として定式化され、記号化した女子高校生や中年サラリーマンの姿としての他者と自分である。
しかも、実際のところ、私たちは他者とは理解不能な者であることを、自明のものとして受け入れて久しい。
それは、他者への理解を停止することで、煩わしさから解放されることも意味する。

つまり、話さず、聞かず、である。

発声機能に障害をきたした弟が、たどたどしくではあったが、一語一語話してくれた言葉を時々思い起こす。
言葉は不完全であるが、それでもなお、その言葉にすがり、自分とは何者かを話し続けることで、自分が生きていることを確認する作業をしていたのだと思う。

私自身、自分とは何者であるかという自問自答から逃れることは出来そうにない。
自分を知る唯一の手がかりは、結局のところ不可解な他者を鏡にして、己の姿を映し出すことでしか見えない。

であれば、思考する最初の行為として、他者を見つめることから再度始めようと思う。

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