第22回 『新聞折込広告史』概説 大正時代の新聞折込広告

【はじめに】
 1年間に約6200枚(2010年1世帯当り首都圏平均枚数)の折込広告が入る新聞(朝日新聞または読売新聞)、その中には幅広いジャンルの広告が日常的な生活情報として生活者に利用されている。

 新聞折込広告は、いつ頃から新聞に挿まれて家庭に届くようになったのだろうか?広告史研究家で広告のルーツである江戸時代の引札を数多く蒐集した増田太次郎氏(1905年~1990年没)は、新聞折込広告が現在のような仕組みになったのは大正時代の後期、大正12年(1923年)の関東大震災前後であると言っている。

 新聞折込広告が広告のメディアとして成立するためには、新聞があり、新聞を配る販売店があり、新聞の読者がおり、読者にメッセージを伝えようとする広告主が居なければならない。増田氏が著した書物を中心に、それぞれのファクターの動向を調べながら、新聞折込広告の歴史を眺めたい。

【新聞について】
 新聞折込広告は新聞というメディアに依拠している。新聞が無ければ成立しない。また、読者へ新聞を届ける販売店の存在も必須である。当時の新聞と販売組織について調べてみた。

 明治時代後期から大正時代に入り全国で販売されていた新聞は、別表の「明治37年と明治40年の新聞発行部数」の通りで、「万朝報」や「報知新聞」「東京朝日」「都新聞」などがある。因みに「朝日新聞」の創刊は大阪の地で明治12年1月25日の第1号に始まる。定価は1部1銭、1ヵ月前金で18銭。「大阪朝日新聞」である。「大阪朝日新聞」は創刊2年後の明治14年には発行部数1万を超え、大阪で第1位の部数となる。東京への進出は明治21年7月。「東京朝日新聞」と呼び、定価は1ヵ月前金25銭。

▽明治37年と明治40年の新聞発行部数
明治37年と明治40年の新聞発行部数

▽大正10年12月の各新聞の頁数と定価
大正10年12月の各新聞の頁数と定価

 余談だが、新聞広告が本格化し始めたのは、福沢諭吉の「時事新報」が、明治19年3月から“広告の効用”を説いた論文を他社の紙面に広告として掲載し、社内に広告係をおいて広告募集を始めてからで、広告キャンペーンの文に『商売に広告の必要なるは、兵士に武器の必要なるが如し。何程の勇士にても素手にて敵を攻めて勝を取ることは難く、何程抜目なき商人にても、広告を為さずして高利を博することは難しく、広告に種々方法ある中にも新聞紙を利用するに越すものなきは、世界中の定論なり。』と言い切り、新聞購読者は富有上流の人で、特に「時事新報」は上流社会に強く、商人の広告用に最適であると謳っている。

 話を戻すと、明治37年の全国の新聞発行部数は164万8600部、3年後の明治40年は約228万6000部と大きく部数が伸びている。明治37年・38年の日露戦争が伸びた要因である。大きな事件が起きると国民大衆の関心が新聞に向けられ、その結果、部数が伸びる。新聞代金は1ヵ月定価で30銭~40銭くらい。知識階級の月俸給は、明治25年頃で小学校の先生の初任給が8円、新聞記者が12円~25円、銀行員は35円、夏目漱石は松山中学の先生で80円、明治39年の石川啄木は尋常高等小学校の代用教員になるが月俸給は8円だった。

 次に新聞販売店だが、別表の「東京朝日管内各地扱店数と紙数」によると、明治41年「東京朝日新聞」の扱い店舗は318店、部数は約7万6000部。新聞販売店を「新聞売捌所(しんぶんうりさばきしょ)」と呼んでいた。新聞社によっては、配達や販売組織の違いで「直営販売店」、「専属販売店」、「諸紙売捌店」、「大取次売捌店」と分かれていた。「直営販売店」は明治36年に「報知新聞」が始めた。参考までに別表2つを資料として付した。「大正10年12月の各新聞の頁数と定価」と「東京朝日新聞部数の伸長」である。

 明治時代後期から大正時代にかけて、新聞は完全に国民生活の中で購読慣習が定着し、普通教育の水準が向上するにつれ、読者層は急速に広がって行く。
参考までに、新聞販売店の数は昭和3年に東京市内外で市内に約320、隣接町村に約260店。取扱部数は15大新聞で約100万部。

▽「東京朝日」管内各地扱店数と紙数
「東京朝日」管内各地扱店数と紙数

▽「東京朝日」新聞部数の伸長
「東京朝日」新聞部数の伸長

【時代背景について】
 新聞折込広告は時代を映し出す鏡であると良く言われる。増田氏も「引札は過ぎし暮らしの形見かな」と詠っている。大正時代の特徴を挙げてみると、「サラリーマン」と言う呼び名が出現した時代でもある。消費が急速に伸び、消費の大衆化が進み、新しい消費者層といえる新中間層・サラリーマン階級が登場する。東京の人口も一気に膨れ上がり、江戸時代に100万人だった人口が明治20年代から増え続け、大正元年(1912年)に200万人を突破、大正8年(1919年)には約240万人と急増する。

 特に関東大震災以後は、郊外への進出が多い。第一次大戦の好景気があり、企業の新設や拡大、大正3年の大正博覧会や大正11年の平和博覧会など活気が溢れている。商業活動では百貨店の大衆化(木綿デーなどの各種特売を打ち出し)が大きく消費を促し、三越は大正3年、ルネサンス式5階建の新館を建築し、下足廃止・土足入場を断行する。市電やバスの発達で買物行動も楽になる。生活スタイルは洋式模様の商品が氾濫し、食生活ではパンや洋食が家庭に普及する。文化鍋、文化コンロ、文化住宅など頭に“文化”や“モダン”が付いた商品が増える。大正14年にはラジオ放送が開始。日本人の意識革命が進み“大正デモクラシー”と言われた時代である。

【広告について】
 大正11年(1922年)に新聞折込広告専門の会社が誕生した。新聞部数の増加と販売組織の確立、都市部の人口増加、消費の大衆化が進む中で、新聞折込広告の出現は例えば百貨店の特売催事のメッセージを正確に、敏速に、能率的に消費者に伝えることが出来る。

 特に翌年の大正12年に起きた関東大震災の復興に新聞折込広告が大いに活躍した。三越や松坂屋などの百貨店が、焼けた店の近くにバラックを急造し、マーケットを開設。日用品の廉売を始めたのだが、その告知は殆どが新聞折込広告であり、特長である機動性と即効性をフルに発揮した。商店街でも“復興売出し”を行った。当時のデータだが井関十二郎氏(1872年~1932年没)主宰の「実業界」と言う雑誌に「少ない日で2~3枚、多い日で6~7枚」新聞折込広告は使われていた。広告の内容や印刷方法も活版からオフセットに移行し、チラシのコピーも口語体に変化した。形態も型抜き変型、折り畳み型(ホルダー)、新聞号外型、デンポー型、はがき型、書翰型など変化に飛び、広告主の業種・業態で多いのは、映画館、メーカー、銀行(貯蓄銀行)であった。

 同時期に出現した他メディアは、交通広告、ネオンサイン、アドバルーン、浴場広告、チンドン屋、飛行機や宣伝カーからバラ撒く広告、包装紙、日めくり暦、マッチのレッテル、電車の回数券・乗車券の裏広告など。

【大正の新聞折込広告】
「増田太次郎コレクション(オリコミサービス管理)」より

▽銘酒日本盛:大正11年、「タヲル進呈 一升壜一本毎に差上げます」
メーカーのリテール・サポートの広告。
銘酒日本盛

▽いせや堤燈店:大正、東京・西巣鴨、「五月武者、三月雛 各人形」
専門商店の広告。
いせや堤燈店

▽白木屋呉服店:大正、東京・日本橋、「懸賞当選 浴衣地即売展覧会」
百貨店の大衆化をあらわした広告。
白木屋呉服店

▽近江屋呉服店:大正12年、前橋市、「復興大売出し」
関東大震災の直後の広告。
近江屋呉服店

▽松屋呉服店マーケット部:大正、東京・神田今川橋、「松屋マーケット」
関東大震災の後に出来た新しいスタイルの店舗での広告。
松屋呉服店マーケット部

▽三越呉服店:大正12年、東京・新宿、「三越新宿マーケット」
関東大震災の後に出来た新しいスタイルの店舗での広告。
三越呉服店

▽京都大丸呉服店:大正末、福井市、「大丸来ル」
百貨店の移動販売の広告。
京都大丸呉服店

▽瀧商店:大正、東京、「日乃出はいとり紙」
蝿取紙の広告。
瀧商店

<参考文献>
「折込広告のあゆみ 創立20周年記念」東京都折込広告組合、「鯉登寿雄 折込広告と歩んだ五十年」首都圏折込広告組合協議会、「江戸から明治・大正へ 引札・絵びら・錦絵広告」増田太次郎著、「チラシ広告に見る 大正の世相・風俗」増田太次郎著、「引札絵ビラ風俗史」増田太次郎著、「広告会社の歴史」斎藤悦弘著、「広告」八巻俊雄著、「チラシで読む日本経済」澤田求・鈴木隆祐著、「折込広告 歴史と役割」坂上康博・橋本和孝・小池保夫著、「日本生活文化史 市民的生活の展開」和歌森太郎編、「大正文化 帝国のユートピア」竹村民郎著、電通「日本広告発達史」内川芳美編、「新聞販売概史」日本新聞販売協会、「朝日新聞社史 大正・昭和戦前編」朝日新聞社、「朝日新聞販売百年史(東京編)」朝日新聞社。

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