第23回 『『新聞折込広告史』概説2 昭和初期の新聞折込広告』

【はじめに】
 今回は昭和初期(昭和元年~昭和10年)の新聞折込広告について調べた。

 1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災は、東京・京浜地区に大災害を起こしたが、新聞折込広告にとっては活躍の場となり、躍進した。百貨店を代表する小売りが帝都復興を謳い、顧客層の確保に向けた広告活動で新聞折込広告は使われた。売出しメッセージを素早く伝えると言うメディアの特長、速効性などが見直される。メディアの役割が確立された時期でもある。

 その後、時代は金融恐慌から1929年(昭和4年)10月24日“暗黒の木曜日”に突如起こったニューヨーク・ウォール街の株式大暴落、世界大恐慌の波が日本にも押し寄せる。同時に1931年(昭和6年)や1934年(昭和9年)の東北地方を襲った冷害も悲惨な結果をもたらした。1931年(昭和6年)9月に満州事変が勃発し、日本は軍国主義ファシズムに向かって行く。

 前回同様に、新聞折込広告の広告メディアとして成立条件である新聞、新聞を配る販売店、新聞の読者、読者にメッセージを伝える広告主、折込広告会社などを参考文献(下記記載)や折込広告研究家の増田太次郎氏の著書を眺めながら調べ紹介する。

【新聞について】
 世の中の動きを伝える新聞も昭和初期にもなると安定する。しかし安定に至るまでの間、新聞界は紆余曲折する。関東大震災が起こる前は五大新聞の時代と呼ばれていた。「報知新聞」「時事新報」「國民新聞」「東京朝日新聞」「東京日日新聞」の5紙だが震災により経営に大きな変化をもたらす。焼け残った「東京日日」と「報知」は号外などを発行し勢力を伸張する。「東京朝日」は全焼したが、「大阪朝日」からの援助により「震災後3日目だったが、大阪から軍艦で芝浦岸壁まで運ばれてきた大阪朝日新聞を積み荷おろしに行った」という販売店主の発言にあるようにスピーディーな支援活動で復活発行した。震災前は東京で生まれた東京の新聞が優勢であったが、震災後は大阪系の「東京日日」や「東京朝日」の躍進に変わった。

 同時に販売面も、ほぼ専売に近い体制が整えられた。この事は、折込広告にとっても新聞銘柄指定や地域指定を可能にし、媒体価値を高めることになった。震災後の1924年(大正13年)の全国の新聞総発行部数は、推定で1日平均約625万部、対人口普及率は9.28人に1部であったが、10年後の1934年(昭和9年)には、1日平均約1080万部に達し、対人口普及率も6.16人に1部、世帯構成人数を仮に平均5人とすれば1世帯に1部弱の割合まで高まっている。
 余談だが、新聞休刊日の設定は昭和4年9月に年3回(毎年1月2日と春分の日翌日と秋分の日翌日)と決定された。

 新聞を配る主な新聞社販売網の東京市内実状を紹介する。「東京日日」は直営出張所制度で社内に管理課を置いて統轄し、昭和5年1月発行部数119万6000部に達した時、市内出張所で45万4000部を扱う。その後に出張所を増設し合計175ヵ所に達した。「東京朝日」は直営所を置かずに岩月新聞舗に委託し、その他専売所入れ市内販売店の数は143ヵ所。「報知」は直営制度(分局)で一部専売店と合わせて132ヵ所。「時事新報」は社営と自営とに分かれ計132ヵ所。「國民」は直営出張所57店と売捌店、専売所を合わせて114ヵ所。「讀賣」は直営出張所を原価制度の専売店に改め88店。

 新聞のページ数と月極め定価を調べる。「東京日日」は昭和11年12月に時事新報を吸収し、昭和12年元旦の有代発行部数は143万2185部。朝刊8ページ→10ページ(昭和8年時)→12ページ(昭和9年時)→10ページ(昭和10年時)、夕刊4ページ→日曜も発行(昭和8年時)→8ページ(昭和12年時)。月極め定価は1ヵ月1円→90銭(昭和6年時)→1円(昭和10年時)。「東京朝日」は朝刊8ページ→10ページ(昭和7年時)→12ページ(昭和9年時)、夕刊4ページ(日曜夕刊なし)→8ページ(昭和12年時)。月極め定価は1ヵ月1円→90銭(昭和6年時)→1円(昭和10年時)。「報知」は朝刊8ページ→10ページ(昭和8年時)→12ページ(昭和12年時)、夕刊4ページ→日曜も発行(昭和9年時)→8ページ(昭和12年時)。月極め定価は1ヵ月1円。「國民」は朝刊8ページ→10ページ(昭和8年時)→8ページ(昭和10年時)、夕刊4ページ→6ページ(昭和4年時)→日曜夕刊を4ページに(昭和5年5月)→平日も4ページ(昭和6年時)、昭和8年時には日曜付録「少年少女」タブロイド8ページ(~昭和10年時まで)。月極め定価は1ヵ月1円→85銭(昭和5年11月から)→90銭(昭和8年時)→75銭(昭和10年時)。「讀賣」は総合編集面を2ページにし、経済面を独立、歴史ある婦人家庭面を拡張し家庭新聞としてPR、さらにラジオ版を付録とし、日曜夕刊も発行、スポーツ記事も売りに。昭和6年の満州事変より夕刊も発行、昭和9年10月には東京市内で部数トップ。朝刊8ページ→10ページ(昭和6年時)→12ページ(昭和10年時)、ラジオ版2ページ(昭和5年時まで)、日曜夕刊4ページ→6ページ(昭和5年時)→8ページ(昭和6年時)→平日の夕刊も発行4ページ(昭和6年時)→日曜平日とも8ページ(昭和11年)、月極め定価は1ヵ月80銭→90銭(昭和7年時)→1円(昭和12年)。

【時代背景について】
 1923年、突如として関東大震災が発生し、京浜地区は壊滅的な被害を受けた。東京の被害は甚大で、東京市社会局調査課のまとめでは全壊・焼失家屋は40万7900戸、震災前総戸数の6割4分、罹災人口は154万5029人、震災前人口の6割5分、死者7万1614人。交通・通信機関は麻痺し、電力・ガスもストップ。新聞社も全て発行不能で、公共的なニュース報道も途絶。住民は極度の社会的な不安に落ち入った。バラック小屋造りから帝都復興が始まる。人口も都市へ急激に集中する。表の「人口の都市集中」に見られるとおり人口5万以上の市部への集中は震災以降急激に増加する。その大部分が工場労働者ともに、会社員、銀行員、店員、官公吏、教員などの勤め人とその家族であった。都市の生活様式も現代的な色合いを帯びる。同潤会のアパートが出来るのもこの時期である。東京の地下鉄開通(浅草~上野)は1927年、大阪は1935年に開通(梅田~心斎橋)する。

▽人口の都市集中
人口の都市集中

 マス・メディアの分野でも新しい変化が起きる。新聞は読者層の底辺を拡大し大衆新聞化し、講談社「キング」が1925年の創刊以降大量部数を維持し、改造社が「現代日本文学全集」を発行し、円本ブームを起こす。映画=活動写真も1931年(昭和6年)に邦画初のオール・トーキーもの「マダムと女房」(松竹)が製作上映された。1931年の映画館数は1449館あり、年間入場者数は164,717,249人。新聞折込広告の得意先には映画館もあった。ラジオは1926年に日本放送協会が設立され、1928年(昭和3年)11月には全国中継放送網が完成する。表の「ラジオ受信者数」を見ると急激な広がりが分かる。

▽ラジオ受信者数
ラジオ受信者数

 百貨店も昭和に入り普及する。表の「デパートの普及状況」は東京や大阪のみでなく、地方都市にも新設されている。伊藤重治郎は著「百貨店の趨勢」(1934年)で震災前と震災後のデパートの変化を、デパートの顧客が有産階級から大衆に変わり、デパートの営業サービスも高踏的から大衆的に転じ、商品も輸入品中心から国産品中心に変わり、地階売場や特売品売場が拡張され豆腐や納豆のような大衆的な日常商品までも扱うようになった。建物が巨大化して売場面積が拡張され、エレベーターやエスカレータなど構造設備も近代化された。三越や松坂屋のような呉服屋がデパートに発展して行くタイプではなく、東京の美松や京都の丸屋のように最初からデパートと創業したものや大阪の阪急百貨店や東京の東横百貨店などの鉄道企業がデパートをターミナルに進出している。

▽デパートの普及状況
デパートの普及状況

 参考までに表「戦前の諸車保有台数」を付加した。自動車の普及に対し、人力車や荷車、馬車の減少が良くわかる。

▽戦前の諸車保有台数
戦前の諸車保有台数

【広告について】
 昭和に入り、都市への人口集中は新聞の部数増と大衆化をもたらした。新聞折込広告も新聞の専売制による新聞銘柄指定などでメディア価値を高め、広告主の需要を喚起した。折込広告の得意先には百貨店、銀行、映画、そしてメーカーの広告が目立ち、当時の大口利用の一例では「日活、松竹、松坂屋、髙島屋、西川、伴伝、ヤマサ醤油、キッコーマン醤油など一流会社の広告を取り扱った。取り扱い範囲も本土及び朝鮮、台湾、樺太にまで及んだ」と記録されている。その以外の広告主には講談社、寿屋、武田薬品、藤沢樟脳、私鉄の観光宣伝、生命保険会社などが折り込んだ。折込広告の料金は、昭和6年の内田誠著「実際広告の拵え方と仕方」や昭和9年の長岡逸郎著「チラシ広告の作り方」にも載っているが、東京市内外では1000枚で金80銭(但し菊判まで)、大阪は東京に比べて高く1000枚で1円20銭。京都・名古屋・神戸は同じ1円が標準。

▽新聞広告出稿量
新聞広告出稿量

▽大阪朝日新聞広告会社ベスト5
大阪朝日新聞広告会社ベスト5

▽広告行数上位15紙
広告行数上位15紙

▽案内行数上位20紙
案内行数上位20紙

 折込広告以外の広告メディア概況を挙げると、新聞広告では震災直後の被災した市民や企業・事務所の立ち退き先や尋ね人などで案内広告が殺到し、次に復旧を知らせる“復興広告”が続いた。参考までに新聞広告に関した表を付けた。「新聞広告出稿量と業種別シェア推移」では薬品広告が多いのが分かる。1928年(昭和3年)の出版のシェアが上がったのは円本ブームの影響によるもの。「広告行数上位15紙」と「案内広告行数上位20紙」は1924年と1936年の比較を見ていただきたい。先に【新聞について】で記載した新聞のページ数の推移も参考にしてほしい。「大阪朝日新聞広告会社ベスト5」には「電通」「博報堂」の名前も出ている。新聞広告での大幅な変化は、1928年(昭和3年)4月1日付紙面から「大阪朝日」「東京朝日」「大阪毎日」「東京日日」の4紙が13段制を実施したことだ。一時大混乱に落ち入ったが、増段によって実質的な広告増収が図れたことは大きい。平行して「広告浄化運動」も活発化する。「東京朝日」は1933年(昭和8年)6月1日、広告掲載制限事項(10ヶ条)を定め、本格的な広告浄化を実施した。広告媒体としての新聞の社会的責任が自覚され始めた。

 雑誌広告も婦人雑誌を中心に順調な伸びを示している。1934年(昭和9年)の婦人雑誌年間売上部数は2000万部に迫る勢い。1927年を100とすると、1934年は209という成長率を上げている。電通の「広告五十年史」に1933年総広告費の内訳の記述がある。総広告費合計は1億1100万円、新聞は5500万円(シェア49.6%)、雑誌は1100万円(9.9%)、ポスターは2000万円(18.0%)、屋外・交通広告は500万円(4.5%)、小売店は2000万円(18.0%)。

 屋外広告はネオン看板が主流になる。1926年(大正15年)以降から急速に普及する。1929年には三越がネオンを掲げ、最盛期は1933年~35年ごろ。アドバルーンも1930年前後から始まる。国鉄の交通広告も活発化する。表「国鉄の広告収入」を見ると1928年以降急激な伸びを示している。宛名広告、ダイレクトメールも盛んに利用されている。表「銀座小売商の広告方法」には宛名広告と新聞折込が良く使われていたことが分かる。その他には、チンドン屋、マネキン・ガール、ショー・ウィンドなどがある。

▽国鉄の広告収入
国鉄の広告収入

▽銀座小売商の広告方法
銀座小売商の広告方法

<参考文献>
「折込広告のあゆみ 創立20周年記念」東京都折込広告組合、「鯉登寿雄 折込広告と歩んだ五十年」首都圏折込広告組合協議会、「広告会社の歴史」斎藤悦弘著、「放送の五十年」日本放送協会編、「広告」八巻俊雄著、「日本広告史年表」八巻俊雄編、「チラシで読む日本経済」澤田求・鈴木隆祐著、「折込広告 歴史と役割」坂上康博・橋本和孝・小池保夫著、「日本生活文化史 市民的生活の展開」和歌森太郎編、「完結 昭和国勢総覧」東洋経済新報社発行、「日本洋服史」洋服業界記者クラブ著、「日本新聞通史」春原昭彦著、電通「日本広告発達史」内川芳美編、「新聞販売概史」日本新聞販売協会、「朝日新聞社史 大正・昭和戦前編」朝日新聞社、「朝日新聞販売百年史(東京編)」朝日新聞社、「東京百年史 年表」東京都編、「20世紀年表」毎日新聞社。

【昭和初期の新聞折込広告】
「増田太次郎コレクション(オリコミサービス管理)」より

【1】本舗遊佐一貫堂/薬種メーカー広告
昭和5年「特売 婦人病の塩竃さふらん湯。」
本舗遊佐一貫堂

【2】イマズ蚊取香/殺虫剤メーカー広告
昭和5年「専売特許イマヅ蚊取香大懸賞。」
イマズ蚊取香

【3】宮城県古川「見龍」青沼彦治/酒造メーカー広告
昭和4年「酒類味噌醤油醸造元」
宮城県古川「見龍」青沼彦治

【4】ヒゲタ醤油/醤油メーカー広告
年代不明「おいしくて割がきく。」
ヒゲタ醤油

【5】浅草橋通り大丸屋呉服店/夏衣大売出し広告
年代不明「お買上金額5円以上に反物を一反進呈。」
浅草橋通り大丸屋呉服店

【6】浅草広小路電車通り長崎屋呉服店/夏衣福引大売出し広告
年代不明「福引券進呈方法は金3円以上お買上福引券1本で更に金3円を増す毎に1本追加。空籤なし。」
浅草広小路電車通り長崎屋呉服店

【7】神田明神下伊勢丹/中元御贈答品大売出し広告
年代不明「7月1日からの売出し。50銭から10円までを各円均一。」
神田明神下伊勢丹

【8】東京上野松坂屋/夏の呉服雑貨手持品大見切広告
年代不明「春物の処分と夏物準備の内覧会。」
東京上野松坂屋

【9】上野松坂屋/歳暮均一デー広告
年代不明「12月8日より均一値段売出し。」
上野松坂屋

【10】大阪長堀橋高島屋/優良雑貨はんぱ物デー広告
年代不明「3日間限り、お一人様一種一点限り売出し。」
(夜9時までの夜間営業)
大阪長堀橋高島屋

【11】東京京橋髙島屋呉服店装飾部/洋家具の一大奉仕広告
年代不明
東京京橋髙島屋呉服店装飾部

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