【はじめに】
大正時代、新聞の大衆化と戸別配達制度の確立から生まれた新聞折込広告。このメディアの歴史を調べれば調べるほど、先達が残した宝ものに出会います。
江戸時代後期から昭和時代の広告を蒐集し、研究していた増田太次郎氏(1905年~1990年没)と日本で最初にチラシ広告研究特集号を組んだ雑誌「実業界」の主幹である井関十二郎氏(1872年~1932年没)がいた御蔭で、当時の折込広告の現物が存在し、更に、どの様に広告が使われていたのかが理解できます。
増田太次郎氏は、明治38年に静岡県で生まれました。日本大学専門部社会科を卒業し、同大学工学部調査課長、専門部講師などを歴任し、戦後は宣伝広告のコンサルタントになり、雑誌「宣伝」を主宰しながら、日本の宣伝広告史の研究をライフワークとし、宣伝広告資料の蒐集を行いました。氏が顧問を務めた(株)オリコミサービスには江戸初期から昭和時代に至るまでの膨大な数の広告コレクションが保管されています。「引札は 過ぎし暮らしの 形見かな」は氏の想いを表した言葉です。氏の主な著書は「チラシ広告12ヵ月」、「DM戦略」、「引札絵ビラ錦絵広告」、「引札絵ビラ風俗史」などがあります。
井関十二郎氏は、明治5年に山口県で生まれました。東京専門学校(現早稲田大学)を卒業し、その後、アメリカに留学、帰国後の明治44年に雑誌「実業界」主幹となり、広告と経営学を研究した明治大学の教授でした。氏の主な著書は「広告心理学」、「現代式広告文句」、「商業戦術」、「店頭構造と店内設備」、「這入り易く出易い各種小売店の店頭構造及店内設備」、「繁盛する商店」、「販売の常識」、「文化と広告」、「売上増進新式販売術」、「広告の仕方」、「飾窓の飾方」、「生きた広告」、「広告心理学」などがあります。
今回は、井関十二郎氏が主幹の昭和3年の雑誌「実業界」チラシ広告研究特集号の内容を紹介します。
【時代背景について】
昭和3年(1928年)とは、どんな時代だったのでしょうか?
1月、大相撲春場所でラジオの実況中継が行われ、新聞にも相撲興行の広告が載りました。
2月、総選挙で初めての男子普通選挙で行われ、以前の納税額による選挙資格が撤廃され、25歳以上の男子に選挙権が与えられました。
3月、麒麟麦酒からキリンレモンが販売されました。日本共産党員に対する一斉検挙が行われた3.15事件がありました。東京上野で開催された御大礼記念国産振興博覧会の高島屋呉服店の陳列場で、初めてマネキン・ガールが登場しました。
4月、横浜崎陽軒が箱入りのシュウマイを販売開始しました。
5月、日本を代表する医学博士の野口英世が、西アフリカで自身が研究中の黄熱病に冒されて51歳で亡くなりました。高知の桂浜に坂本竜馬の銅像が建ちました。
6月、三越呉服店と大丸呉服店が、共に店名から呉服店名称を取り、三越、大丸と改称しました。6月4日の虫歯予防デーが日本歯科医師会によって提唱されました。
7月、第9回オリンピック・アムステルダム大会が開かれ、日本選手団54人が参加しました。この大会で初めて陸上競技に、女性の参加が認められました。
8月、オリンピックの陸上3段跳びで織田幹雄が優勝し、水泳では200m平泳ぎで鶴田義行が優勝、念願の金メダルを受賞しました。また陸上女性初参加で、人見絹江が陸上800mで銀メダルとなりました。
9月、大礼記念と称した博覧会ブームで、東京、京都をはじめ、仙台名古屋、岡山など全国で9つの博覧会が開催されました。
10月、日本航空輸送株式会社が創立され、初めての定期旅客輸送を開始しました。浦上商店(現ハウス食品)が、即席カレーのハウスカレーを発売しました。
11月、ラジオ体操が初めて全国中継されました。NHKの中継網が完成したことで、NHKラジオの全国中継が実施され、天気予報や時報なども放送されました。
12月、内閣統計局で大阪の人口が233万3800人で日本一と発表されました。東京の221万人を抜き、ニューヨーク、ロンドン、ベルリン、シカゴ、パリに次いで世界でも6番目の大都市となりました。
以上が昭和3年の出来事でした。ちゃぶ台が一般家庭に普及したのも昭和3年頃からです。いわゆる一家団らんという風景が定着しました。また、この年の流行は、遊びではチャンバラごっご、流行歌は波浮の港、出船の港、君恋しで、映画は丹下左膳シリーズです。言葉では「フラッパー」(明るくお転婆な娘、または、はすっぱな不良娘)、「弁士中止」(政府与党の政友会は猛烈な選挙干渉を行い、演説会で立ち会いの警官が「弁士中止」と差し止めた)、「マネキン・ガール」(ショーウインドーやデパートの陳列台の上に立って、流行の衣装や装身具を身につけ宣伝の一翼を担う、という新しい婦人の職業)、「マルクス・ボーイ」(社会主義かぶれの若者を嘲笑して呼んだ。女性は「エンゲルス・ガール」という)などが流行りました。
【実業界のチラシ広告特集号について】
こういった時代の中で、着実に新聞折込広告はメディアとしての地位を確立しつつありました。その証明が昭和3年10月に発行された雑誌「実業界」の「秋季拡大チラシ広告研究号」です。写真は「実業界」の目次で、別表は目次を一覧にしたものです。執筆者は百貨店やメーカーの広告部長、宣伝部長で、一話一話の内容が大変興味深く、今でも通用する考え方が書かれてあるのにはビックリします。
例えば、三越の広告部長である松宮三郎氏「広告政策としてのチラシ広告一考」では、「何としても読んで貰うこと」が前提で、しかし、作り手側の自己満足であってはならない。最近流行りの「打ち抜きを使用して有効に利用」も、誰に喜ばれるのかを想定してから作りなさいと提言している。「打ち抜き」とは「アサヒビールのビール瓶の図」や「キッコーマンの樽の絵」のような型抜き印刷のことです。広告は消費者の五感に訴え、読ませる工夫が必要と言い切っています。
また、折込広告社(現オリコミサービス)社長の東庄吉氏「最も効果ある折込広告の仕方」では、当時の、このメディアの実態が見えてきます。「新聞折込広告とはチラシや引札を、日々の新聞に挿入して、新聞紙と同時に、その読者の家庭に配布する方法を云う」とこのメディアを説明し、東京市内外の新聞販売所の数も市内に約320、隣接町村に約260、合せて600軒あり、取り扱いの紙数は15大新聞で約100万部あったと説明しています。新聞折込広告を有効に活用する秘訣は、一に「方面の指定」が肝要で「広告を配布する区域を考えなさい」と云い、二に「新聞紙の指定」では「15新聞は15とも特色があり、読者の傾向も違う」、三に「配達区域を知ること」では「新聞販売店がどこまで配っているかを知る」ことが重要、四に「販売紙数を知ること」では「販売店が配っている扱い部数を把握する」必要、五に「販売店の個性」では「新聞に挿入する時に丁寧に広告を扱う販売店かどうか」を云っている。当時は広告を新聞に入れる時は手入れで折り込みをセットする機械は勿論ありません。六に「折込広告の大きさ」では「扱い易い大きさ」が原則で、新聞の四分の一即ち半頁以下の大きさ(B4サイズ以下)でなければならなかったことが分かりました。
「チラシ広告合評会」も面白いです。三角型の広告の向きは、どちらが良いかなど興味深い話もありました。
▽昭和3年実業界
▽実業界内容一覧
【おまけ】
実業界チラシ広告特集号の執筆者である松宮三郎氏が昭和13年(1938年)に書いた「すぐ利く廣告」から、ダイレクトメール用の顧客名簿の重要性を記述した箇所を原文の一部を引用して紹介します。
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米國邊では、この宛名式廣告名簿の売買が盛んで、現にこれを營業にしてゐるものも數多くある。我國には、まだその數は少ないが、米國では一回買つた名簿、二回買つた名簿、三回買つた名簿と云つて賣つて居るが、これ等は悉くその賣價を異にしている。即ち、
一回買つた名簿(千名単位) 十 弗
二回買つた名簿(同 ) 三十弗
三回買つた名簿(同 ) 五十弗
四回買つた名簿(同 ) 八十弗
と云つた工合で、これ以上五回、六回、八回買つた名簿は、漸次に割高になるのである。米國の斯界經驗者の言葉に從へば、四回以上買つた華客は、これは常華客と云つてもよい。確實そのものゝ華客であると云つて居る。アブラハム・リンカーンの言葉に、「人は一度信用すれば一生信用するものだ」と云ふものがある。一回信用して買つた人が、重ねて二回三回と買ひつゞけて、その人が終に永久の華客、即ち常華客になると云ふのも、これまた偶然のことではないのである。
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以下の広告は、増田太次郎氏が蒐集したコレクション(オリコミサービス保管)。
▽仁丹謝恩大懸賞/仁丹本舗
▽仁丹の練歯磨/仁丹本舗
▽専売特許ハクキン懐炉/松屋呉服店
▽アサヒビール[ビール瓶の図]/アサヒビール
▽キッコーマン 樽の絵/野田醤油株式会社
▽白鹿/高井六支店
▽森永ミルクチョコレート/森永製菓株式会社
▽大和田式冷蔵庫/尾崎商店
▽天賞堂[懐中時計]/天賞堂大阪支店
▽普通家内用裁縫機械/シンガー製造会社