第158回『笠森お仙と広告会社』

▼クリエイティブのパワーダウンは何故?

 広告制作のクリエイティビティが昨今とみにパワーダウンしていることは衆目の一致しているところではないか、と思っています。皆さまはいかが感じておられますか?
不景気になり、広告にお金が掛けられなくなったから?、売りが求められるため創造力を発揮する余地がすくなくなった?など理由は挙げれば限りなくあると思われますが、私は思うには制作能力の基盤である情報収集力、または情報感度が鈍くなった結果も大いにあるのではと思っています。
なぜそうなったのか?この原因は制作する会社のオフィスづくりにもあるのではないでしょうか?

▼受付嬢がいつしか消えた?

 古い話で申し分けありませんが、かつての広告会社、またはクライアント企業には心惹かれる感じの良い女性が受付には必ずいて、ときによってはお茶を接待してくれていました。
そしてとりわけ若い広告マンにとっては、彼女らに接することが楽しみのひとつであったような気がします。かく言う私も恥ずかしながらその一人でした。
広告や媒体セールスであれば、たいした価値のある商談ネタがなくても、気軽に客筋に出向けましたし、とくに成長期の媒体マンなどは当座の商売は完結しているのが通常でしたから広告代理店回りをしている際に、受付嬢との雑談が格好の時間潰しとなったようです。
女性の立場からすれば、「私たちは客寄せパンダじゃないわよ」と柳眉を逆立てるかも知れませんし、また考えてみればムダな人材の配し方とも思われます。
そしていつしかこうした受付嬢は受付電話や連絡パネルに取って代わり、媒体情報のやり取りは、オンライン化。広告会社と媒体社との関係は急速にオンラインネット化されました。
そのネットでは、丁度JRの「緑の窓口」のように時間や番組の空き枠情報がやり取りされ、こうした情報ネットの整備は、媒体社と広告会社の結びつきを強化し、媒体情報収集の省力・迅速化などの効率化を促進し、併せて新規や競合への参入障壁を高める役割も果たしたのです。
その結果、情報機器ベースのマネジメントが普及し、用のない人の来訪は迷惑となり、広告代理店の事務所内部や宣伝部の担当の席に行くことは御法度になりました。つまりは情報伝達に関わる人の存在・役割が希薄になってき、官僚的な管理が普及したと言えます。

▼タワーの住人こそが一流広告・制作会社の証明?

 いまや一流と呼ばれる広告会社のほとんどは高層タワービルの上階に入居しています。そのため会社訪問には何重のセキュリティの関門を突破せねばなりません。
一流アドマンは、首にIDカードをぶら下げるのがステータスです。そんなわけでアポなしで担当に逢うことは不可能となっていることはご承知の通りです。
しかし、こうした業種は、本来情報が命です。そして情報には、文字通り情と報せがあり、またこの情報は、ファックスやメールなどのITツールのみに頼ることは充分でないことは自明でしょう。情報には同時に人に付随した、振る舞いや言葉遣いなど身体性によるソフトな側面もあります。また情報には雑多性・多元性があるために、ある人には無価値であっても人により、さらには見方によってその価値は変わるモノです。

▼情報社会の効率とはなにか?

 したがって、他人の話を小耳に挟むこと、オフィスにある空気なども大切な情報収集です。
一方、現実のオフィスづくりはセキュリティや情報漏洩など、オフィスをガードの堅い空間に閉じ込め固めることが重視され、情報交流や人のために開かれねばならないオフィスは管理に都合の良い、他者を排除するデザインの流れに価値を置くようになっています。
こうした用がないこと、時間のムダを排除する考えは生産性を上げるのに、一見、効率的に見えるかも知れませんが、一方、情報のもつ豊かさをそぎ落とし情報を資源化するための異質との出会いや複雑性、多元性などに触れる機会を自ら廃棄している気もします。
私などは先輩から教わったのは、「棄て眼」と言うことですが、それはその場では当座役に立たない情報への目配りの役割とその大切さです。

▼お仙の茶やの教訓?

 最近、江戸が人気です。そうした江戸の商法の一つに水茶屋の集客目的となった「美女」があります。
古い人には懐かしい手まり歌で有名ですよね。
彼女らは錦絵に描かれ評判となり市をなす賑わいを演出したそうです。また古い横町には「小町」なるアイドル的存在もありました。
商才のある人なら誰でも知っていることですが、賑わいがあれば商機もあります。
そこには豊富な情報や儲けネタが集まるからで、それらは皆人についてくる貴重な資源です。それを生かす、生かさぬこそ目利きの創造力でしょう。
最近、ある建築家は、「半屋外」にこだわっているそうです。
いらない塀は取り去り、ちょっとした縁側をつける工夫だけで町が気持ちよくなるからだそうです。この縁側があるだけで、人びとや自然との「ご縁」が生まれ豊かな気分で日々が送れるのでしょう。
いま広告会社の空間はご縁が生まれる空間でしょうか?
人も来ない密室で、居心地のよくないご縁を排除する貧しい囲い込み空間がクリエイティブの空間であれば、そこから生まれるクリエイティブはまた貧しく、人情の機微とはほど遠い情無しの世間様とは外れたモノとならざるを得ないでしょう。

▼人とのご縁を無視する管理姿勢

 クリエイティブのコモディティ化はクリエイターの過ごす環境と相関すると言ったら独断に過ぎるかもしれません。しかし、時間の生産性を強く意識し、大切な人からのノンバーバルな雑多情報を拒む管理の姿勢は、より踏み込んだ思考への道を阻む原因のひとつであると考えます。
私は、ウイキペディアもGoogle情報検索も否定はすべきものとは思っていませんが、こうした意識する、しないは別として囲い込まれた空間に自身を置き、自分に都合の良い情報収集だけに頼った「創造作業」は自ずと他人の枠組みに縛られることは不可避です。

 うがった言い方を敢えてすれば、広告は世情そのものであり、人情を資源化したサービスビジネスではないでしょうか?そしていまでも広告ビジネスの原点は「外」にこそあるのではないでしょうか?
広告会社よ、塔を出でて街に出よ!
広告会社はどうあればいいのか?もう一度、ご縁担ぎで、向こう横町のおいなりさんへにあるお仙の茶やのサービスを思ってみてもいいのでは?と思います。

 この意見、シャンな(超古いコトバですね)受付嬢を楽しみするデンジャラス老害と非難されるかも・・・!

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