いま、マーケティングでは富裕層が注目されています。
いわゆる金融資産1億円以上、世帯年収3000万円以上の人々を対象として想定するセレブマーケティングです。
セレブと言う言葉は英語のセレブリティのことで、例えばビル・ゲイツ、アンジェリーナ・ジョリーなど、また話題を撒き散らすじゃじゃ馬セレブのパリス・ヒルトンなどがイメージされます。
彼ら、彼女らは、マスコミにいつも注目されており、しかも想像を超えたスケールの裕福な生活を送っている人々です。
しかし、日本でこうしたセレブは?と言うと、叶姉妹であったり、デビ夫人とか、さんま、さらには野球やサッカーのスターとか有名で派手なライフスタイルを営む有名人と言う感じで、セレブのシンボルがブランドであったり、宝飾であったり、億ションであったりと、いまひとつスケールに乏しい。
ある意味で「成金」レベル、また庶民感覚的には運が良ければ手に届きそうな程度の存在がイメージされます。
かつての生活価値観をリードした一億総中流幻想は、木っ端微塵となってしまいました。
そして300万円ライフどころか収入120万円で生活を営まねばならない「下流」の貧困層が増加傾向にあり、中流は、そのまま中流と脱落組とに引き裂かれつつあります。
そのために、いつかは中流生活から脱落し、下流へと引きずり込まれるかもしれないという不安感が私たちを掩っています。
そうしたなか、「中流」を維持し、人並み以上の暮らしを望む人々は、一方で「下流」をつくり差別化を図り、他方では「セレブ」幻想を創り出している気もします。
高価なファッション品、支払い金に応じたホスピタリティ、VIP待遇のパーティなどは、いずれも「一時セレブ」を楽しむモノであり、サービスとも言え、それらの話題性を土台にマスコミが喧伝し「セレブ」幻想を振りまいているのが今日の状況だ、とも言えましょう。
これがマーケティングの新作法であるならば、なんとも貧困です。
何故なら、このセレブマーケティング発想は、ある意味、かつてのバブルへのマーケティング屋のノスタルジーに過ぎないものであり、描かれた「豊かさのイメージ」は旧態依然、時代に対しなんら提案性、革新性ないものだからです。
このままでは、「セレブ」は、格差を強調し勝組のみを持ち上げ社会的には無用のストレスを拡大する情報公害にもなりかねません。
なにかと話題の中国の話ですが、彼の地のセレブは大きな高級外車や大型エアコンがお好みで、とりわけ黄金色が人気とか?
こうしたセレブのテイスト、あなたは憧れますか?
私的には正直、下品。「
かっこいい」とは思われません。
仮に「セレブ」が理想のライフを実現するライフモデルならば、そのモデルは、「かっこいい」モノでなければ憧れや時代性をもつには至らないでしょう。
話は飛びますが、最近「バック・トゥ・ザ・ホテル」というムック誌に出会いました。
これは世界の100の名ホテルを文章と写真で紹介したものですが、いずれもが著者が身銭を切ってホテルを体験した労作で、よくあるタイアップ記事や提灯持ち取材ではないところに価値があります。
著者は、“せきねきょうこ”と言う女性、ヨーロッパで観光事業に携わった経験をもつホテルジャーナリスト。
彼女の筆は、独自の見解を展開し、居ながらにしてリッチな極楽ホテル体験へと誘ってくれます。
記事中、とくに興味を抱かされたのは、最後に紹介された「SAN CAMP」と言うボツワナのテントリゾート。
カラハリ砂漠の一隅にあり、電気も水道もない超シンプルライフをホスピタリティとして提供するホテルで、そこに世界の旅の通がサファリルックで決め込みセスナ機でやってきて、大金を支払い文明社会とは無縁の環境のもと、不便を楽しむと言う著述でした。
このテントホテルは乾期のみ営業で雨期には店じまいだそうですが、こんな「貧」に価値を置いたホテルが世界のセレブの人気を得て予約は満杯だとか。
まさに虚飾に倦いた果てに富裕な人々が到達する究極の境地。
この前には、バブリーな「リッチ」や「ゴージャス」はいかにも貧相です。
世界のセレブ達の「お金」をものともしない「脱もの発想」、「超シンプルライフ」の贅沢は、「豊かさとは何か?」を問うマーケティングには、貴重なヒントを示すものではないでしょうか?。
ゴージャスを超えた新たな価値観とライフスタイルの芽生えに着目、そして新しい「豊かさのイメージ」の開発・発展へ挑戦する。
それは時代をかなり面白くしそうです。