第209回『TEMPEST』

▼掌の砂の城

 W・シェイクスピア最後の戯曲とされている「TEMPEST」、移動の合間に鑑賞しました。
この戯曲については余りに有名ですので、コメントを差し控えますが、しかし、私だけかもしれませんが、シェイクスピアというと教養主義的で高踏的との偏見も在り、ついつい敬遠しがちでした。母校には演劇博物館もあり、かつてもモテナイ私などは坪内逍遙先生の遺産の中で一人時間つぶしていたのですが、バカ学生には先生の高雅は、まったくと言っても良いほどに影も残しませんでした。
また芸術作品なるものも堅苦しく余り好きではありません。
 しかし、今回はアカデミー賞なども得た話題作品でもあり、時間の埋め合わせと夏日の避難を兼ねて、ま、一応見て置くか?と新宿のミニシアターに立ち寄った次第。
で、どうだったか?結論は「面白い!」の一語に尽きます。
 先ずはファーストシーン。乙女の掌に築かれた黒く濡れた砂の城から始まり、それがみるみる雨に崩されていくシーン。日常の崩壊から始まるファンタスティックなドラマへの見事な誘いです。自然の猛威に空しい人の欲望、栄華がこのワンシーンですべて語り尽くされてます。これと同じ見事なファーストシーンは、あのキューブリックの「2001年宇宙の旅」以来ではないかと思います。

▼詞と韻の美しさ

 第二は台詞の美しさ、とくに韻を踏んだコトバの響きとリズム感です。原文を聞き取る語学力はありませんが、それを超えて心に沁みてきます。
さすが英国ではディムの称号を持つ名女優ヘレン・ミレン(プロペラスという元王妃で魔女の役)など当代切っての役者さん達の技としか言いようがありません。
 一部、日本でも読み語りが流行っており、美しい日本語が再復活して行こうとする動きもあるようですが、現代文学では、まだまだ文字を辿る視覚的な側面が強い。耳で聞く文学は、極言すれば「一葉」でお仕舞いと言う気がしています。「能」などは詞の芸術でもありますが、こうした遺産への眼差しは途絶えたのでしょうか?
 同時にTVを代表するように映像文化は隆盛を極めていますが、そうしたなかコトバは、どれくらいの位置づけを与えられているのでしょうか?
 第三はやはり最新映像技術駆使した映画ならでは美しさと小気味よいテンポです。
衣装デザインも評価されているのは納得です。
この作品を脚本・制作・監督を手がけたジュリア・ティモアは、日本にも滞在し・文楽、歌舞伎への造詣が深い女性で、ディズニーの「ライオンキング」にも深く関わっています。彼女の活動は舞台から映画までとジャンルを超えており、こうしたこともあってか、シーン一つづつに緊張感があります。その結果、映像、衣装、音を通じて視聴覚すべてにおいて高品質で娯楽性に満ちあふれた 大人のファンタジーの極限とも言うべき作品となったのでしょう。

▼奥行きと斬新さ

 感動を呼ぶ作品づくりには、「文化」への深い造詣がカギではないか?あたり前過ぎる話ですが、メディアの多様化やリテリラシー能力向上と文化性はまったく関係ありません。
基本はメディアの特性と限界を熟知し、表現者の思い通りに駆使して新しいものへとシフトさせる能力と自由で素材、技術に囚われない表現自体の創造的な魅力です。
 先日、都庭園美術館で開催された「森の芸術」展に出向きましたが、美術館というメディアを活かし「森」と言うテーマで既存の作品に光りをあてつつ西洋文化の深みに誘うコラボレーターの見識・力量には感銘しました。絵画の展覧会にも関わらず私の空想の中ではE:ショーソンの歌曲「魅惑と魔法の森で」が響き快い陶酔の森に迷い込んだ気がしました。映画もそしてTVも同じです。
 TEMPESTのよさはイギリス文化の深みと懐の広さ、そして伝統と進取の精神の凝縮でしょう。
地デジやハイビジョンは従来にない高画質を提供しています。が同時に成熟した大人の鑑賞に堪える作品はまだまだ不足です。
 映像の市場のかつてない成長を迎えて、わしら老人ですら、もはや話題性だけではなく、濃い時間を求めています。
TVが単なるおもちゃ箱としてまた映像技術がギミックに終わるのでは「節電」の折りからも「もったいない」・・・。
若いクリエイターさん、残り少ない老人達の時間を少しは豊かにしてくだされ!
AKBの娘御の若々しい脚も目の保養ではありますが・・・。

以上、酷暑に向かう季節の閑話です。

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