▼卓袱台からダイニングテーブルへ
夏の日の徒然に、心に残るTVドラマを思い浮かべています。
別に歴史的な系譜を辿る気はないのですが、きっかけは「家飲み」の原稿を書いていた折、ふと「食文化」の中心である食卓に思いが行ったに過ぎません。
ご存じのように食卓は、それぞれの時代に晒されて来ています。
かつては「膳」が食事の場でした。この食形式は上下関係を意識する武士の価値感を反映したもと言われます。が、明治の後半に入り「座卓」すなわち卓袱台が家庭に進出し、著名な社会主義者などは、一家団欒という観点から膳を廃して座卓すなわち卓袱台の使用を呼びかけたそうです。
卓袱台はこの後昭和初期までに全国的な普及を見せますが、特に関東大震災を契機として膳から卓袱台へと移行した家庭が多かったと言われます。そして、戦後昭和60年代から卓袱台は減少し、洋風化の流れと相乗してダイニングテーブルへと移行していきます。
向田邦子さんの「阿修羅」では、昭和の中流家庭の生活光景としてこの卓袱台は暮しの中心に位置づけられていました。戦後の混乱を乗り越えてなんとか生活に目途を立てた女性達のそれぞれの絆として卓袱台は機能していたました。一悶着在り、何となくその悶着を受け入れる家族の姿を出前の「うな重」を食卓で共食するシーンに仮託したのは秀逸です。
一方、思い浮かぶのは彼の「星飛雄馬」のお父さんがやる卓袱台返し。時代は高度経済成長期に入り、住の充足につれてダイニングテーブルも普及が加速。卓袱台は、文化的な落ちこぼれや貧しさ、さらには独善的で反民主主義的な男優位の象徴となっていきました。
▼ダイニングテーブルの終わり
今放映中ですが、向田さんの「胡桃の部屋」、この放映意図は不明ですが、「ゲゲゲの女房」の松下奈緒が演じているところから、柳の下の二匹目を目論んだのかもしれません。夫=父親が失踪した女ばかりの家庭で、「男」と言う中心点がなくなった団欒のむなしさ、喪失感、家庭の脆弱性を感じさせてはいました。いずれにしろ昭和の価値感がリメイクとは言え色濃く後を引いています。
そして林真理子さんの作品のドラマ化である「下流の宴」。宴を象徴するのは見栄の「団欒」食卓で、食卓の機能は見栄のステージのようです。ここにあるのは昭和の高度成長のシンボルであったダイニングテーブルの終わりです。
にも関わらず黒木瞳の演ずる主婦が、けなげにも、虚栄の食卓をつくり、無意識にモデルハウス的な「主婦」を実践するのが滑稽でまさに「医者のムスメ、国立大卒業の高学歴の夫、そんな私が下流になるの?」のキャッチコピー通り高度成長時期に育まれた「3高」と言う時代錯誤の幻想にこだわる哀しくもユーモラスな「見栄っ張り女」の名演はけっこう楽しめました。
穿ってみれば、いまや格差社会を現実に当面している、かつてのキリギリス型の夢見るお立ち台ギャルに溜飲を下げる向きもあろうかと妙な憶測もしてしまいました。
▼問題は「インビジブル」か?
いま社会学者の間では「インビジブルファミリー(見えない家族)」なるものが新しい家族像として注目されているとのことです。
この言葉は「NRI]日本総合機構が名付けたようで、少子高齢化によって核家族や単身世帯が増えて、老親世帯と子世帯が同居していないにのもかかわらず、あたかもひとつの大家族のように行動するケースのこととINRでは説明しています。また国際結婚や再婚家族など家族のあり方が多様化していることも「家族を見えなくしている背景」にはあるようです。たしかに家族形態の変化は様々な社会現象やライフスタイルを生み出すであろうことは想像に難くありません。もちろんこうした「インビジブル」には不安もつきまといましょう。こうしたなか、食卓は機能していくのでしょうか?いくとすればどこに向かっていくのしょうか?
▼インビジブルからスタートしたい
今回の3:11は家、家庭、家族、地域、社会、所有など今までは考えたこともない領域に渡って問題を突きつけています。そして、すべてが「インビジブルです。」
はっきりしていることは生きて未来を紡いでいく生物としての「宿命」を全うする「使命」を私たちは共有することではないか、と思います。
これはある意味、政治的、経済的な次元とは別の哲学的な課題かもしれません。
幼い頃の記憶ですが、疎開先でお盆になると黒塗りのコンパクトなお膳のセットが納戸から引き出され、食料難の時代にも関わらず精一杯の膳部しつらえられて戻ってきた先祖の霊と共食をし、そしてお供え物は精霊流しと称し藁で編んだ小舟に乗せて海に送り出したことを思い出します。
戦地から帰ってこない父は不在。明日の暮しのめども立たない母の苦労が始まった敗戦の夏でした。
*卓袱台に関しては「Wikipedeia」を参考にさせて頂きました。