第37回 カマキリとバッタ そして「にんげん」

061201

先日駅への道を歩いている途中、若いお母さん、保育園くらいとよちよちの男の子が虫取り網をもって遊んでいるところを通りかかりました。

ん?虫?この季節にしては何の虫を??

思わず通りかかった私は下においてあるプラスチックのケースを覗きこみました。
そこにいたのは、2匹ほどの大きなカマキリと、大小あわせ10匹くらいのバッタでした。

思わず私は「バッタが食べられちゃうねー」と口から出てしまい、お兄ちゃんが自分が採ったにも関わらずお母さんに向かって「心がないねえ」と辛辣かつ勝手な一言。。

思わず笑ってしまいました。
お母さんはややムキになって「私じゃないでしょー」とかいってましたけど。
お母さん、ゴメンネ。

虫や野生動物の世界は食物連鎖、食べるものと食べられるもの。
その有無をいわせない自然の中で生きている。

それなのに。

未来に向けて大きな可能性を秘めた「にんげん」の子供たちがなぜ、毎日のようにイジメによって毎日のように命を絶ったり、さらには親の手によって殺されてしまうような事件が後を絶たないのでしょうか。

親にも子供にも夢がない、希望がないのかな。

そんなことはないはず。
特に子供は子供であり、何でも取り込んで変われるからこそ子供であるわけで、夢や希望を持たせるのは大人の責任ではないか。

私たちはカマキリやバッタじゃない、「にんげん」なのです。

「にんげん」である以上「にんげん」らしく生きるために必要な夢とか希望とかがあるべきで。
もちろん現実の厳しさも必要であり、それは昔よりももっともっと厳しくなってはきているけれど。

私たちはカマキリやバッタじゃない、「にんげん」なのです。

子供達が現実に向き合うことから避け、弱いものをイジメ、弱いものは命を自ら絶つ。
大人たちは昔自分が子供だったとき以上に、大人としての責任を問われている時代の中で「にんげん」であることに対して夢や希望を必死になって目指すべきだと思うのでした。

と、独身の私がいう権利があるかないかは別としてね。(汗)

でもあまりにも悲しい事件が多いので書いてしまいました。

なぜなら私たちはカマキリやバッタじゃない、「にんげん」なのですから。

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