第45回 モラル

070209

先日の「納豆騒動」に引き続きまたテレビ番組制作において波紋を呼びそうなニュースがありました。

それはあるバラエティ番組で捏造ではないにせよ、行き過ぎた表現、不適切な点があったとテレビ局が謝罪したものです。

何回か前のブログで「がんばれテレビ」というタイトルのブログを書いていながらもテレビの「モラル」というものに対して改めて考えました。

大衆メディアとしての役割と影響力を圧倒的にもち続けていたテレビにおいて、「視聴率」という強迫観念が「モラル」をこのように越えてしまうことは、インターネットの影響力に対するテレビの焦りのようなものを感じるのです。

表現する側の思いと、受け取る側の評価が違ったりするのはままあることですが、畑は違えど、メディアを通じて何を表現するかということに対しての責任を感じざるを得ません。

以前お会いした某テレビ局出身の映像制作会社の社長さんは、見るからに「映像のプロ」といったオーラをバシバシに醸し出していました。
その静かな語りの中に「視聴率」の強迫観念とは全く無縁な、TVマンであることに誇りをもっている、モノづくりに対する強い自負を感じたのです。

このような方も大勢いるのは間違いない訳で、そのような意味でもその番組に携わった方たちがどこまでそのような事実に対して考えていたのだろうか、ということに興味があります。

殆どの仕事は、様々な人の集まりにおいて分業することで成り立っているのだと思います。
時と場合によっていろいろな立場や考え方があるのは事実と受け止めたうえで仕事を考えたとき、どこまでの「モラル」をもって取り組むのか。

そしてモノづくりにおいて、最終的な仕上がりや、お客様の満足度がどれだけ高められたかという評価においてこそ、そのモノづくりに携わるチーム全体の「モラル」が何かを問われるものだと思います。

でも「モラル」だけに縛られては「可能性」の芽を摘む危険性も充分はらんでいるわけで、それはこのような表現を生業とする人間の一人として、常にいいバランス感覚を失わずにいたいと思っています。

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