第466回 母のこと

 

今年はじめてのブログになります。ご無沙汰してしまいました。
ようやく書けるところまで落ち着いたので、ご報告させてください。

先週の18日金曜日の午後、母が入院中の病院で突然倒れ、黄泉の国へ旅立ちました。

享年85歳。死因は大動脈瘤破裂。
毎日血圧も測り、なんの兆候もなく、トイレから車椅子に戻り病室への数メートルの間に、まさに一瞬のできごとだったとのこと。

その日私は仕事の打ち合わせで相模原におり、兄からの連絡で駆けつけたのですが、到着したときには既に旅立った後でした。
しかし死に顔は、彼女自身が旅立ったことが分からないほど穏やかで血色もよく、まるで寝ているかのようでした。

何が起きたか理解できないまま、とにかく自宅に連れて帰ると、すぐに親戚も駆けつけてくれました。
週末をはさみ、近くの斎場で21日の月曜日に告別式。
家族全員がなんだか分からないうちに、彼女は真っ白な骨となり帰宅しました。

昨年1月に転倒し大腿部を骨折、半年以上に及ぶ入院生活の途中の4月には父が亡くなり、葬儀と7月の父を偲ぶ会にも車椅子で参加。
9月に退院し、歩行器を使いながらも頑張っていたのですが、年末12月に再び転倒、今度は手首を折ってしまい再入院。

しかし手術も成功し、リハビリしながら2月の退院にむけて頑張っていた最中に起きた突然の出来事でした。

介護疲れでノイローゼになりそうだったころ、ボディーガードとしてついていったヨーロッパ、モンブランにて。展望台についた瞬間に雲が晴れ、山頂が見えてご機嫌の1枚。

兄弟の多い家の長女として生まれた彼女は、とにかく兄弟仲がよく、長女の特権をいかして叔父や叔母の家族を招集。
私が子どもの頃から、年に何度も集まってはご飯を一緒に食べて育ってきました。

自分の父が病気だったため、中学を出てから上京し、働きながら夜学を卒業した苦労人の母ですが、終戦のとき、それまで国に信じ込まされていたことが全て嘘だったことに対する大きな疑問と怒りを抱いたとどこかで書いていました。
その終戦の日から、父や友人と共に、平和を実現するという夢のような目標のために生き抜いた人でした。

私の名前である「史樹」をつけるのにも、被爆二世で死んだ名越史樹ちゃんの名前を、あえてつけようと強く主張。
自分が終戦を迎えた12歳に私がなったタイミングで、史樹ちゃんのお母さんに会いに広島へ。
それが今生きる私のあり方を決定づけた原体験でした。

姑の世話を最後までしながら看取ったあとは、現在にいたるまで、たくさんの友達も含めた、本当に大きな意味での「家族」との繋がりがなによりの生きがいでした。

物心ついてからは、遊びも学びもなかった青春を取り返すかのように、とにかく好奇心が旺盛で、学ぶことにも貪欲。
私や兄が若い頃やっていたライブにもほとんど顔を出し、最前列でニコニコ笑っていたよね、と友達が教えてくれました。
最近になり、どんどん身体が不自由になっていくなか、死の前日までその生きる意欲を1ミリも失っていませんでした。

そんな母のことですから、今回の彼女の旅立ちは、昨年先に逝った寂しがり屋の父が、我慢できずに呼び寄せたのは間違いないと思います。
周りの驚きや悲しみとは関係なく、とにもかくにも鮮やかなピンコロを決めてくれました。

生まれも半年しか違わず、享年までほとんど同じ二人。
いまごろ天国で父に「突然すぎてみんながビックリしてるじゃないの!」と母が怒り、きまり悪そうに、でも嬉しそうに笑う父の姿が目に浮かびます。

自分の生に迷走し続け、心配をかけ続けてきた私ですが、両親ともに一度も「ああしろこうしろ」はありませんでした。
おそらく本当に心配だったはずですが、絶対的な信頼をもっていてくれたんだと思います。

結婚後、妻が実家で食事を作るようになると、何を食べても必ず「お店みたい」と大喜び。
また自分史をライフワークとして始めたことを報告すると「頑張ってくださいよ。まどかちゃんを幸せにしてあげてね。」と笑いながら嬉しそうに聞いていました。
妻が、両親の生き様や考え方に尊敬をもって聴くことも本当に嬉しそうで、話はじめると止まらないことも多々あり。
息子三人を育て上げ、ようやく肩の荷が降りつつあるなか、二人の姪や、妻という女性同士で過ごす時間も、本当に幸せな時間だったのだと思います。

2016年6月の「ゼンダマフェス」で、石田純一さん、ロバート・ハリスさん、丹下紘希さんと。すごく嬉しそうだった。

そんな母の旅立ちから2日後の20日、講師として自分史講座を開講しました。
講義中に思い出しモードに入ったらどうしようか、という心配は全くの杞憂に終わり、参加者のみなさんとも素晴らしい時間を過ごすことができました。

今思えば「自分史に興味をもってくれる人が増えてきたんだよ!」という私の報告を、喜びながらも話でしか聞けなかった彼女は、一緒にその場にいたのだと思います。

ちなみにこの自分史講座ですが、4月の父が亡くなった3日後にあり、8月親友が亡くなった翌日にもあり、そして今回母が亡くなって2日後の開催。

私が自分史に取り組みたいと動き出してから、まるですべてが神様の書いたストーリーのようです。
そのあまりの偶然に畏怖を感じつつも、3人とも、自分史を通じていのちの素晴らしさを伝えることを応援してくれていると信じています。

この文章を書き終えてしまうことで、母が遠くなることを恐れている自分がいます。
しかし、これを書かないことには自分自身が先に進めないのも事実。
そして、彼女の人生をこんな短い文章だけで語るにはスペースが足りません。

血を超えた、本当に大きなスケールの、いわば地球家族のようなつながりこそが彼女が死の直前までチャレンジし続けたこと。

それを実現するための自分自身のあり方を、私はたくさんの仲間と引き継いでいくことを決めています。
そして、その一生を私自身の自分史としてまとめていく作業に、時間がかかっても取り組んでいこうと思います。

最後に、最愛のパートナーである父に、弔辞として母が送ったフランスの詩人ルイ・アラゴンの詩をシェアして終わりにしたいと思います。

「教えるとは希望を語ること 学ぶとは誠実を胸に刻むこと」

これからも教えあい、学びあって共に生きよう。
ここまで読んでくれたみなさん、本当にありがとうございました。