石岡良治『視覚文化「超」講義』(フィルムアート社)という本を読みました。
タイトルだけを見るとアヴァンギャルドな映像論なのかと思いますが、実際の内容は映像の誕生から現代までの流れを丁寧に追ったものとなっています。領域横断的に映像の歴史を網羅する、と言う意味での「超」なんですね。映像の歴史と、現在を知るための入門書としては非常に優れた、教科書的な本でした。
その中で気になった箇所がありましたので、以下に引用します。
ファンコミュニティとは特定の目利きや批評家たちのサークルではなく、むしろ複数のサークルを超えていることに意義があります。例えば日本のオタク文化のように、一見ドメスティックな狭い趣味だと思われていたものの、世界中に同じ趣味を持つ人間がいたことが可視化され、広がりを持った事例があります。(p283)
これは本書の最終章「ファンコミュニティの再編、文化をめぐる速度と時間」内に書かれています。映像文化を教養的に探ってきた本書は、最後に「ファンコミュニティ」について考えることで、これからの映像の形を探ります。
例えば『妖怪ウォッチ』のアニメーションは小学生男子をメインターゲットに制作されています。作品は当然、受け手である小学生男子のコミュニティから興味を持たれ評価されるという目的を持っていますし、実際に評価されてファンコミュニティを作ることができたからこそヒットしたはずです。となると、『妖怪ウォッチ』のアニメーションについて考える時には、作り手や作品だけではなく、作品の受け手である小学生たちについても考えなくてはいけません。つまり、「ファンコミュニティ」まで含めて『妖怪ウォッチ』のアニメーションという作品なわけです。
このように、映像は「ファンコミュニティ」によって定義されるという側面を強く持ちます。古くから映像文化の代表格である映画は、制作に多くの投資と時間、人員を必要としますし、それを回収するためにはいかに「ファンコミュニティ」に届かせるか、あるいは「ファンコミュニティ」を作り上げるか、ということが重要になります。映像の歴史は「ファンコミュニティ」の歴史と言っても過言ではないわけですね。もちろん、「ファンコミュニティ」が重要となるのは映像だけに限りません。
ファンコミュニティはあらゆる対象、音楽や小説、作品の場面といった経験の良し悪しについて、濃密なパッケージングを施します。しかし、現在の視点から検討すると、「昔の人が悪いと言っていたけれどよかった」といったように、作品解釈が過去の偏見とは別の偏見で再編されるわけです。そこにも新たな偏見が介在しますが、これは不可避と言ってよいでしょう。重要なのはシニカルな懐疑ではなく、偏見をもたらす「関心」をガジェットとしての関わりで問い直していくことです。(p285)
以上の引用の「関心」という部分は重要でしょう。文化の評価というのは、ここで言われているように評価が定まるものではありません。いつの時代もアヴァンギャルドとトラディショナルの間で評価が行き来しますし、それでこそ生きた文化というわけです。
文化を作りたいと考えたとき、何を目指せば良いのか。それは、人数や規模とは別のレベルにある濃密な「ファンコミュニティ」を作り続けていくことに他ならないのだと思います。
本書は映像論でありますが、同時に「ファンコミュニティ」論でもありました。非常に興味深い繋がりを生んでくれた一冊でした。