第6回 拘りとはなんだろうか

先日、電車の中に折り畳み傘を忘れてしまいました。
その日は問い合わせても出てこなかったのですが、3日ほどしてまた窓口を訪ねてみたところ届けられており、無事手元に戻りました。

特に高価なわけでも、おしゃれなわけでもない、茄子色の折り畳み傘です。幼稚園の卒園祝いで園から貰ったものなので、20年以上は使っている計算になります。そう考えると、妙な愛着が湧いてしまい、手元から離れてしまうとなんだか無性に寂しくなるものです。

元来貧乏性なのかも知れません。なぜか物持ちが良いのです。このような、結果的に長い付き合いとなってしまったものが、身の回りに結構あります。この前など「このパンツ、すげえ薄くなってるけど、そういえばいつから履いてるんだっけ?」と考え、中学の時に購入したことを思い出しました。さすがに考えものですね。

そんなわけで、手元に戻った傘を干しながら思うのですが、こういうのが「拘り」なのかもな、と。

例えば高校時代など誰しもが経験するとは思いますが、とにかく自分のアイデンティティを確立したくて、拘りを作ってみます。特定のアーティストしか聴かなかったり、特定のブランドを信奉してみたり。
そんな拘り作りは、微笑ましくもあるのですが、今考えると勿体無かったな、と思うところもあります。もっと広くニュートラルに物事に触れていたなら、色々な知識や経験が得られただろうに、と。

いや、未だ気がつくと拘り作りに必死になりそうな自分を見つけて、猛省することもあります。
でも、この茄子色の傘は、別にこいつを拘って使い続けようと思った結果、20年も使い続けてるわけではないんですよね。丁度いい大きさで、丈夫で、シンプルで、特に意識することなく使い続けられるものだった。結果、20年以上使う拘りの傘になったわけですね。

この傘を見ていると、「拘り」というのは、作るものではなく、残るものなんじゃないかな、と思います。拘って使うのではなく、使っていたから拘りになった。拘りというのはそういうことなんじゃないかな、と。

良いものは誰かの「拘り」になる、そうあって欲しいものです。

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