第11回 副次的なもの

先日、夜の神保町の通りを歩いていたのですが、おそらくは築50年は経っているであろう古書店の前を通りかかったとき、2階の窓から笑い声が漏れ聞こえてきました。

古いサッシの窓から、店員の歓送迎会かはわかりませんが、通りを行く僕の耳にとても賑やかな声が漏れ聞こえてきて、すごく大切な、その時にしかない豊かさを知れたように思えて、涼しくなりはじめた夜の空気とともに、深く感じ入りました。

しかしながら、その良さというのが、とても危うく脆いものであるような気もして。どうしてだろうと、そのとき一緒に歩いていた人と考えたのですが、やはりそれは喪失の予感ではないのかという結論に達しました。

本来、その店の二階の窓というのは採光のため、あるいは風通しのために作られたもので、通りを歩く者の心を、やわらかくするために作られたわけではないでしょう。しかし、そのように目的をもって作られたものが、結果的にその目的とはまったくべつの「副次的」な現象を作り出し、その「副次的」な現象が、人の情動を深く揺り動かすものなることがあるわけです。

あの、柔らかい光とともに漏れ聞こえてきた窓からの光。それは、あそこを毎日通る仕事帰り人々にとって、どれほど大事なものだったとしても、本来想定されない窓の用途です。つまり「副次的」なものです。毎日通る人々は、その「副次的」なものを愛でたり、特別の感情を持って受け入れたり、自分がこの場所を通るときのささやかな楽しみとしているのかもしれません。

ただ、「副次的」なものは、あくまで「副次的」なものでしかない、という側面ももっています。「一次的」である窓の主目的を担保している建物が役割を終えれば、当然「副次的」なものも姿を消し、コンクリートマンションが、通行人をただ見下ろしていることになるでしょう。

藝術の重要な機能として、この「副次的」なものを愛で、文章や描画や映写によって昇華させるというものがあると思います。藝術の作り手は、そんな「副次的」なものへの執着を口々に語りますし、賞賛し、次代に残したいという欲望が、彼らの創作意欲を掻き立てるわけです。

しかし、「副次的」なものは、どこまでいっても「一次的」なものへの付随でしかないという現実があります。どれだけあの窓を愛し、その魅力を技巧と感性によって磨き上げられた形でアウトプットしようとも、地権やゼネコン、広告会社、不動産という、巨大なロジックによって進行する開発の波を止めることなどできません。

「副次的」なものを守る、継続させるためには、やはり「一次的」なことに影響できる力が必要です。たとえばそれは、政治性だとか、外交だとか、金銭だとか、そういったものに象徴される力なのでしょう。

どちらかではなにも残らない、当たり前だけれども、そういうことを意識させられる夜でした。

R0620509

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