第8回 「3行ニュース」と書き手に求められること

先日、クライアントの方との会議で、livedoorニュースの「3行ニュース」の話になりました。あの「要約すると」というやつです。

これからスマホでのアクセスが増えるので、配信コンテンツも「3行ニュース」的な、トピックスがわかりやすく見える形にしていきたいとのことでした。それに関しては全く正しいと思うので誠心誠意ご意見を反映していきたいのですが、僕が気になったのはその方が最後に付け加えた言葉でした。

担当の方はこう付け加えました。「3行ニュースってあまり好きじゃないんだけど」と。実はこれ、僕がずっと気になっていることでして、「3行ニュース」に関する話題になると、みな似たようなことを言う気がするのです。

「3行ニュース」はスマホ時代に適した、わかりやすい方法だというのはわかるけど、なにか納得できないものが残る、好きになれない。そのような思いを抱いている人がどうやら結構いるらしいのです。僕も、なんとなくそれについては同意できます。しかし、その理由を聞かれると、歯切れのいい答えが用意できない気がします。というわけで、ちょっと真面目に考えてみました。

学校の作文、受験の小論文、就職活動の時のエントリーシート、反省文。これらで良しとされてないものがあります。それは箇条書きです。箇条書きでそれらを提出すると、間違えなく落とされるし怒られます。

ところが仕事となれば、企画書を作るときのイロハとして箇条書きは必須の方法です。要点をまとめ、伝え、納得を導くためにまず要求されることです。「3行ニュース」は言ってみれば箇条書き的な手法です。

なぜ、実社会で重用される箇条書きという有効な手段が、教育や正式な審査だと禁じ手になるのか。考えてみれば不思議なことですが、思うにこれは繋がりのある文章を書いたり読んだりするという行為が教養的なものとして捉えられているからかもしれません。その人の能力を計ったり、誠意を見るためには、積み重ねられた技術や教養が見える文章でなければいけない、と。

また、箇条書きが切り捨てているとされるものとして、関係の提示が挙げられます。文章なら行為や思考を、「AがBしたからCとなった」や「AやBという考えが浮かびCへと思い至った」といったように関係で提示しやすいのですが、箇条書きはこれを「Cとなった」や「Cへと思い至った」といったように、結果のみの提示に還元してしまう傾向があります。これに関しても「関係を切り捨てているかも」「意図的な選択で受け取り方の誘導をされているかも」という不安を感じます。

「3行ニュース」に対する不信感や釈然としない感じというのは、大きく分ければ先に記した「教養的なものの失効」と「関係の切り捨て」という2つの不安によるものではないでしょうか。恐らく僕が感じるのも、この2つの不安に近い、そんな気がします。

しかし、ニュースが長文であろうが箇条書きであろうが大事なのは教養的な体裁ではなく伝わることですし、文章なら関係が見えると言っても、大なり小なり情報を取捨選択して意図的に変異させていることは箇条書きと変わりありません。

結局、書かれたものの良し悪しとは、教養でも関係の提示でもなく、数ある要素をどのように使って伝わるものを編み出しているか、ということではないでしょうか。大塚英志や松岡正剛を出さなくとも、行き着くところはやはり文章力は編集能力と言って良いと思います。

箇条書き的な形式は、実はこの編集能力がシビアに問われる形態ではないでしょうか。DJに例えるなら、繋ぎやエフェクトに当たる長文の技術を使えないのです。数あるレコードの中から限られた数だけ曲を選び、繋がずメドレーとして流しても、求められている場の空気を作り出せるかということになります。

これを同じルールの下で行われるビジネスパートナー間の企画書的なやりとりではなく、有象無象のコンシューマーに対して試みる時、書き手にはかなりの能力が求められはずです。結局「3行ニュース」に多くの人が感じる不安は、
書き手の編集能力の不足にあると思います。

このように話を進めてきて結論を出すとすると、非常に重い気分になるのですが…果たして現代の書き手に求められる水準は相当高いということです。しかし、答えていかなければ生き残れない。生き残る側にいられるように、いろいろと試していく必要を感じます。

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